論理学FAQのブログ

授業でもらったコメントに対して書いたリプライを、ブログ形式に編集しました。

論理学の目的についての抽象的な話

2019年10月7日のコメントペーパーより。レジュメは非古典的な含意と否定I

コメント:論理学の目的というのは、妥当性を突き詰めていって何かの役に立てることなのか、それとも妥当性を高めることそれ自体なのでしょうか。

回答:「論理学は推論の妥当性の研究であるのはわかったが、その研究によってどんないいことがあるのか」という質問と理解して答えます。

ぱっと思いつくのは、いろいろな推論の妥当性を検討し、その規準を明確化することで、私たち人類がより賢く思考し、互いに議論できるようになる、という効果ですね。でも、そのような効果を狙って論理学をやっている人はほとんどいないような気がします。人々によりよい推論をできるようになってもらう、というのは、論理学の仕事ではなく、クリティカル・シンキングなどの別科目の仕事と言ってもよいかと思います (もちろん、同じ1人の人が両方に取り組むことはありえます)。

では、そうした「社会実装」にあまり興味のない論理学者がなぜ推論の妥当性の研究に取り組むのかと言えば、それが、世界と人間のあり方を明らかにするための (ひとつの) 生産的なアプローチだからなのだと思います。

ある一定の領域 (例えば「数」であるとか「知識」であるとか「時間」であるとか) の成り立ちを理解したいとします。このとき、文系理系問わず、アプローチの仕方はさまざまありえます。数の認知を脳科学的に調べるとか、ある科学的知識がどのように形成され定着してきたかを歴史学的に明らかにするとか、物理学の観点から時間を解明するとか、ですね。論理学もそのようなさまざまなアプローチの仕方のうちのひとつです。すなわち、当該領域の成り立ちを理解するときに、「そこではたらいている推論とはどのようなものか」、そして「それらの推論の妥当性の規準はどのようなものか」という問題意識からアプローチするのが論理学です。

とくに、19世紀後半からの現代論理学の発展の中で、こうした推論の妥当性についての問いは、自然と「言語と世界の関係」とか「人間と機械 (コンピュータ) のちがい」といった問題群を巻き込み、そして、これらの問題に対して他の領域にはない独自の洞察をもたらすことがわかってきました。言ってしまえば、ほんとうにほしいのはこうした「独自の洞察」なわけですが、論理学者は、推論の妥当性への問いを、それを引き出すためのトリガーとして使っている、と理解してもらえればよいのではないかと思います。

ここではきわめて抽象的に書きましたが、これからの授業の中でこうした「独自の洞察」をなるべく多く紹介できればと思っています。

古典論理より強くも弱くもない論理

後期の授業が始まったので再開です。

2019年10月7日のコメントペーパーより。レジュメは非古典的な含意と否定I:厳密含意

コメント:

  • 古典論理よりも真に強い論理はトリビアルな論理しかないので、古典論理よりも弱い論理を考えるということでしたが、古典論理より真に強くもなく弱くもない論理はあるのでしょうか。
  • 直感的には理解しがたい推論を古典論理から排除していこうというアプローチだと理解しました。[反対に] 直感的には正しいのに、古典論理において妥当でないとして扱われている推論は、どうやっても妥当にはならないのでしょうか。

回答:同趣旨の質問と理解しましたのでまとめています。

[補足] 古典命題論理はある意味で「最強」の論理で、それよりも真に強い論理はトリビアルな論理 (すべての推論が妥当だとされてしまう論理) しかないという性質が知られています (「ポスト完全性 Post-completeness」と呼ばれます)。なので、「非古典」論理を考えるときにはふつう、古典論理よりも弱い論理を考えるのだという話をしました。[補足終了]

さて、こういう質問が出てくるのでこの授業は気が抜けませんね。(ま、こういう質問が出るよう誘導するような説明の仕方をしたんですが。) はい、あります。わたしが知っている一例だけ紹介します。

ある命題  A からその否定  \neg A が導かれるのはおかしな話です。その逆、 \neg A から  A が導かれるというのも同様におかしいですね。ということで、

 A\supset \neg A\quad \neg A\supset A

はいずれも古典論理では妥当ではありません。他方で、これらを否定した

(AT)  \neg (A\supset \neg A)\quad \neg (\neg A\supset A) 

は、妥当になってもおかしくないですが、古典論理では妥当ではありません。また、これらとほぼ同じ内容の

(BT)  (A\supset B)\supset \neg (A\supset \neg B)\quad (A\supset \neg B)\supset \neg (A\supset B)

も同じく古典論理では妥当ではありません。(AT)は「アリストテレスのテーゼ (Aristotle's Theses)」、(BT)は「ボエティウスのテーゼ(Boethius' Theses)」と呼ばれています。これら(AT)と(BT)を妥当にする論理を一般にConnexive logicと呼びます。訳語はまだ定まっていないと思います。「結合論理」くらいでしょうか。

もちろん、古典論理にこれらをそのまま加えたらトリビアルになってしまいますので、トリビアルでないconnexive logicを作るためには、古典論理の何らかの推論を妥当でなくする必要があります。うまくやればできます。そして、どの推論を落とすかによって、いろんなconnexive logicができることになります。というわけで、connexive logicが「古典論理より真に強くもなく弱くもない論理」の一例ということになります。

現在ではドイツのHeinrich Wansingがconnexive logicの第一人者だと思います。Stanford Encyclopedia of Philosophyのエントリも彼が書いています。

plato.stanford.eduそして、以前京大哲学研究室でポスドクをされていた、われらが大森仁さんが、いまWansing先生と一緒に第一線でバリバリ研究を推進されています。彼がオーガナイズする第5回Connexive Logicワークショップが11月に開催されます。

sites.google.com

わたしはこのワークショップの前に開催されるLogic of Paradoxの学会で発表予定です。なにはともあれ大森さんに会うのが楽しみです。

【発掘】ライプニッツ対デカルト

昨日のエントリ

takuro-logic.hatenablog.com

にわりと反響があったので、「ライプニッツvsデカルト」の話を改めてまとめようかと思ったんですが、以前に別の授業で課題レポートのサンプルとしてまとめたのを思い出したので、引っ張ってきます。いつもとはだいぶ文体がちがいます。

以下のまとめで強調しきれていないのは、ハッキングの「雑多主義」でしょうか。ハッキングは、証明には、少なくとも2種類の、そして一見相反していると思われる理念が共在しているということを指摘するわけですが、そこから、両者を調停しなければならないとか、あるいは一方を他方に還元しようとか、そういう方向にはいきません。証明というのは (そして数学というのは) 雑多な考え方や方法の寄せ集めであって、その雑多さこそをちゃんと捉えないといけない、というのが彼の考えです。ウィトゲンシュタインですね。 

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証明についてのデカルト的理念とライプニッツ的理念

本稿では、イアン・ハッキングの提示している2つの証明の理念、「デカルト的理念」と「ライプニッツ的理念」について説明し、これらを取り巻く現代数学の状況とその問題点について述べる。ハッキングは著書『数学はなぜ哲学の問題になるのか』*1 において、数学が哲学的に興味深いものである一つの理由は「証明」にある、と論じている。証明によってわれわれは「新たな事実、そしてしばしばありそうもない事実を完璧に満足の行く形で」納得するという体験をする。証明のもつそのような効力が、ある種の哲学的な謎として、歴史上の哲学者を惹きつけてきたとハッキングは言う。「たんなる言葉、たんなる考え、ときにはたんなる図像でしかないものが、いかにしてそういう効力をもちうるのだろうか」(同書邦訳p.1、以下ページ・節番号のみの参照は同書邦訳から)。

もちろん、そのような効力をもちうるのは、ある一定の性質を満たした「よい」証明だけであり、また「よい」証明は一種類だけではない。ハッキングは、証明が満たすべき理想、理念としては、少なくとも「デカルト的証明」と「ライプニッツ的証明」の二種類があるとする。

まず、証明についてのデカルト的な理念とは、証明とは「いくらかの省察と学習ののち、何から何まで理解し、「一挙に」把握できる」ようなものであるべし、という理念である (p.26)。これが「デカルト的」と呼ばれるのは、このような証明がもたらすのは、デカルトが言うところの「明晰判明な知覚」のようなものと考えることができるからである。たとえば、幾何学の証明問題を解こうと苦闘しているうちに、ついにうまい補助線の引き方を思いついた瞬間、それまでの試行錯誤による混乱が晴れて、事態がクリアに見えるようになる。このような「わかった」という感覚をもたらす証明こそが「よい」証明である、というのがデカルト的な証明の理念である。

次に、ライプニッツ的な証明の理念は、証明をする者や読む者の心理的な状態や感覚ではなく、証明の形式にかかわる。すなわち証明は「すべてのステップが慎重に配列され、一行一行機械的なやり方でチェックされるような」ものでなければならない(p.26)。代数計算のように、予め定められた規則に厳密に従い、論理の飛躍なしに結論にまで至るような推論の連鎖が、ライプニッツ的な理想の証明である。彼はじっさい、そのような機械的な証明を可能とするような記号法 (普遍記号法) を構想していた。

デカルトライプニッツという17世紀の哲学者たちをシンボルとするこれらの証明の理念は、ハッキングの見立てによれば、20世紀以降の現代において大きな変容の時期を迎えている。まず、19世紀後半から20世紀前半に確立された形式論理学によって、ライプニッツの普遍記号法の構想は実質的に実現したように見える。証明はすべて数式のような記号によって表わされ、正しい規則に従った推論の連鎖になっているかどうかを機械的に検証できるようになった。そして、こうした証明の検証や、さらには証明の構成そのものまでが、計算機(コンピュータ)によって行われるようになってきている。問題は、計算機によって検証や構成がなされた証明は、必ずしも人間に納得や確信をもたらすようには思えない、ということである。あるいはそもそも、その計算機が正しく動いていることは何によって保証されるのだろうか (1.22,1.33節参照)。ライプニッツの構想はあまりにも高度に実現されてしまったがために、人間にとっての「よい」証明の理念を飛び越えてしまったかのようである。

他方で、デカルト的理念もまた危機を迎えている。数学の主題があまりに高度化・抽象化・専門化してしまったがために、人間が行う (機械的ライプニッツ的ではない) 証明もしばしば、きわめて長く、難解なものとなりがちである。たとえば、有限群の分類定理の証明は2巻本という大著となり、専門家であっても一人でそれを読み通す者はいないと言われるほどである (3.11節参照)。また、2012年に突然、ABC予想を証明したという原稿をインターネット上にアップロードした望月新一宇宙際タイヒミュラー理論は、きわめて難解で、望月に近しい数人しか理解者がいないと言われている*2。これらの証明は、数学的には重要であるにもかかわらず、読む者にデカルト的な明晰判明性をもたらすようなものではないのである。

このように、ライプニッツ的理念については、計算機の発展により、それが「よい」証明の理念であるのかということについて疑念が生じつつあるのに対し、デカルト的理念は、数学それ自体の高度な発展によって、実現がそもそも困難な理念となりつつある。これが、ハッキングによる2つの理念にかかわる現代的状況の診断である。

 

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ちなみに、これは、いわゆる「論述型」レポートのサンプルです (出題した題目はまた別のテーマです)。「君の意見は書かなくていいので、授業で聞いたことをびしっとA4・2ページにまとめてください」と指示しています。

*1:Hacking, I. (2014). Why Is There Philosophy of Mathematics At All?: Cambridge University Press, (金子洋之・大西琢朗訳, 『数学はなぜ哲学の問題になるのか』, 森北出版, 2017 年).

*2:Hartnett, K. (2015). ‘Hope Rekindled for Perplexing Proof,’ in Quanta Magazine. https: //www.quantamagazine.org/hope-rekindled-for-abc-proof-20151221, 邦訳 「Papers from Inter-Universe異世界からきた」論文を巡って : 望月新一による「ABC 予想」の 証明と、数学界の戦い」https://wired.jp/special/2016/shinichi-mochizuki/, 2016 年 (2018 年 1 月 20 日アクセス).

「人間の理解を超えた証明」は証明だろうか

2019年7月1日のコメントペーパーより。レジュメは古典述語論理

コメント:「人間の理解を超えた証明」とは何なのだろうか。その価値判断をできない証明はあくまで形式的なものでしかなく、誰に向けたものかすらわからなくなっている。

回答:前エントリ 

takuro-logic.hatenablog.com

のもとになったリプライへの再リプライです。いや、疑念はおっしゃるとおりではあるんですが、簡単に片付けられない問題でもあるのです。

というのは、数学の証明についてはもともと、人間の理解とは関係なく形式的なものだからこそ、証明は重要なのだという考え方があるのです。つまり、機械的な手続きに任せるからこそ、人間の不注意や偏見から自由な正しい結論が得られる、という考え方です。前回紹介したハッキングの本 (また宣伝しますが)

www.morikita.co.jp

の中では「ライプニッツ的な証明の理念」と呼ばれています。(それと対置されるのが「デカルト的な証明の理念」で、こちらはまさに、人間の「理解」をもたらすような証明こそがよい証明だという考え方です。)

というわけで、証明が機械化され「人間の理解を超えた証明」の登場が現実味を帯び始めた現在の状況は、証明の本来の理念が転倒しているわけではなく、むしろ、ライプニッツ的理念が高度に達成された状況と言うことができます。言い換えれば、まったく見当違いの方向へ進んでいるわけではないのです。もちろん、それはたんに「高度な達成」ではなく「過度な達成」かもしれません。いずれにせよ、たんに機械的な証明は証明ではないと退ければすむ話ではなく、長年構築されてきた「証明の理念」を慎重に再検討しなければならないのだと思います。

ついでに、さらに宣伝しておくと、上記のライプニッツデカルトの対比は、ハッキングの最初期の論文ですでに取り上げられていて、この論文が (正しさは別として) べらぼうにおもしろいので、ぜひ読んでください。

www.iwanami.co.jp

の第13章、拙訳です。

機械的な推論のことばっかり考えて何がうれしいのか

 2019年6月24日のコメントペーパーより。レジュメは古典述語論理

コメント:他の講義でも論理学を扱う話が出てきたのだが、論理学は「適切な設定さえあれば自動的に解を導出できる」ことを担保するのみであり、この「適切な設定」の決定、つまり人間が人間として関与できる唯一の部分に踏み込めていない感が依然として残る。

回答:論理学者としては、まずは、「適切な設定さえあれば自動的に解を導出できる」ことそれ自体に驚いていただきたいと思います。論理学というものが生まれて2000年以上、満足いく自動化はできなかったわけですから。そして、そのような自動化の仕組みを作ること自体も、ある意味で「適切な設定」を求める営みの一部であり、そこに多くの人の英知が注がれてきていることも理解いただければと思います。

これは、「論理学者の苦労をわかってください」という浪花節にとどまる話ではなく、推論の自動化を目指す過程で例えば、計算可能性理論が生まれ、現代のコンピュータの理論的基礎が築かれましたし、論理学 (述語論理) はそのなかで計算 (決定) 不能性という興味深い現象の実例を提供しています。推論の自動化は、人間の科学的な概念枠組みに大きな進展と変容をもたらした出来事だったわけです*1。 

また、推論の自動化はさいきんでは十分に実用化されて、数学ではコンピュータによる自動証明が行われるようになっています。囲碁や将棋においてAIが人間を大きく凌駕しつつあるのと同じように、数学でも「人間の理解を超えた証明」というものの登場が現実味を増してきています。機械的に計算され、それゆえに形式的には正しいが、難しすぎて人間の理解を超える証明というのは、「証明」とみなされうるでしょうか。推論の自動化は、「人間が人間として関与できる」部分、すなわち「理解」の領域にある意味で踏み込みつつあります。少し手前味噌になりますが、

www.morikita.co.jp

第1章Bなどを読むと、問題の所在がわかるのではないかと思います。

もう一つ付け加えておくと、このような種類の議論においては、「自動的」ないし「機械的」なものの領域と、「人間的」なものの領域との境界線をあまり固定的に考えないのがよいと思います。昨今のディープラーニングは、いわゆる「人間らしい」領域、例えば美的判断などにも適用範囲を伸ばしつつありますね。他方で、人間がむしろ機械を模倣し、それを通して自らの直観や理解を拡張するということも、数学ではよく起こることです。これについては、

森田真生 (2018) 「計算と仮説」,『新潮』2018年3月号, pp.175-190.

 がとてもおもしろく、またわかりやすいので、ぜひ読んでみてください。

 

*1:それに述語論理は決定不能なので、いつでも「自動的に解を導出できる」わけでもないですね。ま、これはいまはそれほど大きな論点ではないでしょう。

【便乗】量化の話から(また)論理主義の話

きょうは、新井紀子先生の新著の一節がツイッターでちょっと話題になってましたね。先生の本はこちら:

str.toyokeizai.net

わたしが見たツイートはこちらでした:

参照されているのは、第2章の「AI読みでは、AI人材にはなれない」という節です(Kindle版を買ったので正確な位置が指定できませんが)。

で、新井本ならびに上記ツイートの国語教育にかんする主張については、かんぜんに脇において (あと写像や集合の概念はこの話には本質的じゃないんじゃない?とかいう疑問も脇において)、せっかくなので、たんに便乗する形で量化の話をしましょう。

 

上の例で話題になっているのは、要するに、自然言語の多重量化文の意味を理解するのは難しい、ということですね。多重量化とは、ざっくり言って、「すべて」「存在する」「誰も」「誰か」といった量化表現が複数登場する文のことです。ここでの「意味」とは、これまたざっくり言って、論理的な意味、すなわち、当該の文が他のどのような文から帰結するのか、また反対にどのような文を帰結するのか、という推論関係です。

上の例が面白いのは、ふつう、論理学で問題にするとすれば、

  1. 誰もが、誰かをねたんでいる。
  2. 誰かが、誰もからねたまれている。

のペアだと思うんですが、それとはちょっとちがうペアなんですよね。ちなみに、このペアは、

www.keisoshobo.co.jp

の第1章冒頭に出てくるペアにほかなりません*1。ま、「誰も」「誰か」と能動・受動の組み合わせを枚挙していけば、だんだん混乱していくのはそれはそうなので、新井先生の論旨全体にはそれほど影響はないとは思います (上記2に当たる文も考察されていますし)。

もちろん、新井本のペアにしても『大全』のペアにしてもちょっと考えれば違いはわかるはずで、一部には「こんな簡単なこと」という反応もありました。そういう方のために(?)『大全』の同箇所では、歴史上の「誤謬」が挙げられています (p.20)。アリストテレス、バークリ、そして数学の無限小です*2。その元ネタは

books.google.co.jp

とのことです。上のリンクから当該箇所が読めます。

わたしとしてはやっぱり、コーシーの事例に注目していただきたいと思いますね。たとえば、こちら

www.jstage.jst.go.jp

のp.23にある例1です。コーシーは「連続関数列からなる無限級数が収束するならば、その和は連続関数となる」という命題を"証明"したのですが、じつは、この条件では弱くて、「無限級数収束する」ではなく「無限級数一様収束する」でなければ証明は通らない、ということがわかったという事例です。この「収束」と「一様収束」の違いが『大全』ペアの1と2の違いにほかなりません*3

コーシーと言えば、上記論文のテーマである「解析学の厳密化」を主導した、押しも押されもしない大数学者です。そんな大数学者でも、複雑な証明のなかでは、多重量化にかかわる見落としをしてしまう、というわけです。

 

さて、ここからが本題です。わたしは別に「コーシーだって間違うくらい多重量化は難しいんだ」と主張したいわけではないんです。フレーゲの話がしたいんです。解析学の厳密化が19世紀の前半から中頃、その雰囲気にどっぷり浸かった中で、1879年にフレーゲの新しい論理学が誕生します。

www.keisoshobo.co.jp

自然言語では理解に困難が生じる多重量化文の論理的意味を、人工的な形式言語によって明確に表現できる、というのが、この概念記法の大きなセールスポイントです。ということで、フレーゲが、コーシーの見落としも含め、厳密化の潮流をどのように眺めながら、概念記法を作ったのかを想像したいのです。

まず第一に、おそらく、一様収束性のような重要な概念が、数や関数、図形といったいわゆる「数学的対象」についての考察によって、というよりも、「すべて」や「存在する」といった論理的な概念を本質的に巻き込む形で析出されたことが、強い印象を与えたのではないかと想像します。つまり、これからの数学は論理の力で概念を作っていくのだ、と。

第二に、にもかかわらず、コーシーの見落としが示すように、自然言語に頼った論理的な定義や推論は、こうした新しい数学を推進するには非力です。というわけで、フレーゲの概念記法は、まさに、この新しいアプローチを促進するために開発されたように思えます。その後、彼が本格的に展開することになる「論理主義」プロジェクトもこの流れで理解できるでしょう。

とすると、しばしば (あるいは一昔前では) フレーゲは、認識論的に危うい数学に確実な基礎を与えようとする基礎づけ主義者のように扱われますが (じっさいフレーゲ自身もそういう言い方をしたりするわけですが)、そういう見方はあまり適切ではないように思われます。もちろん、これは当たり前といえばあまりにも当たり前の見方で、というのは、いわゆる「数学の危機」は、フレーゲの論理主義プロジェクトがまさに完成しようとするときにもたらされたラッセルのパラドクスから始まるからです (先に言っといてくれたらよかったのにね)。

フレーゲが見ていたのはコーシーの見落としです。しかし、これが数学の「危機」なわけがありません。これは危機というより、研究がスムーズにいかず、可能なはずの豊かな発展が阻害されているという状況でしょう。つまり、フレーゲが取り組んでいたのは「研究の阻害要因を取り除き、新しい数学の発展を促進する」プロジェクトと理解するのが自然でしょうね、ということです。 

 

*1:上記ツイート主さんは、飯田隆『言語哲学大全I』が元ネタだとツイートされてましたが、新井本のなかでは同書は明示的には参照されてはいないようです。

*2:アリストテレスについては、飯田先生は、多重量化についての論理的誤謬ではなく、必要な前提を明示していないだけではないか、というご意見のようですが (注2)。

*3:むかし勉強会で読んだ杉浦光夫「解析入門I』でも丁寧に解説されていて、よく覚えています(p.303)。

論理学の研究って何を考えながらやってるのか

2019年6月24日のコメントペーパーより。レジュメは古典述語論理

コメント:論理学をやっていて面白いと感じることもありますが、論理学を専門に研究している人というのは、具体的には何をやっているのでしょうか。論理学でわからないこと、まだ解明されていないことにはどんなものがあるのでしょうか。

回答:論理学はいわゆる「通常科学」の段階にあると思います。いくつかの分野・ジャンルが確立され、それぞれの人がそれぞれの分野の流儀に従って、それぞれの分野で探求すべきとされていることを着実に探求している、という状況だと思います。ここでは具体例として、わたしのやった否定についての研究がどのような背景のもとで、何に着目して進められたかを見てみることで回答に代えたいと思います。

いろいろな否定

実験的にでも、いろいろな論理体系を作るのが論理学者の第一の仕事です。ここでは、それらの中の否定に注目してみます。古典論理直観主義論理、最小論理、関連性論理などなど、さまざまな論理体系が作られ、そしてそれぞれの論理のなかの否定が、それぞれ異なる性質をもっていることがわかってきます。

統括的理解を目指す

多様なものが生み出されたら、今度はそれらを統括して理解できるような枠組みがほしくなってきます。それらが共通してもっている性質は何で、それらのあいだの違いを生み出している要因は何かを明らかにしてくれる枠組みです。

応用

そのような枠組みとして、ほんとうに斬新なものを思いつけば、それはそれで素晴らしいのですが、他の領域で使われている枠組みを応用するというのもじつはそれ以上にすばらしいことです。

そこで次のような応用を考えます。否定は1つの論理式にくっついて論理式を作る1項演算子です。同じような1項演算子としては様相演算子があり、様相論理には可能世界意味論という統括的な枠組みがあります。そこで、否定に対しても同じように可能世界意味論を与えてやれば、求めている統括的な枠組みが得られるのではないでしょうか。

付随的問題

可能世界意味論は、論理学の分野ではモデル論に属します。もう一つの大きな分野が証明論であり、通常は、その両方を与え、それらが等価であること (完全性定理) を示すことが、プロジェクト完了の1つの目安です。ということで、否定に対して可能世界意味論を与えるなら、それとうまく対応するような証明論も作ろうというのが、付随するタスクとして生じてきます(こうやって仕事が増えていきます)。

Anomaly

以上の応用問題や付随的問題は、簡単に解けるときもありますが (それだと面白くない)、単純にあちらのものをこちらにもってきただけでは解決しないanomaly (異常事例)が生じえます。否定の場合は、関連性論理の否定がそれに当たりました。可能世界意味論の枠組みで、それをどのように定義するのがよいのか、論争が生じていました。そしてその不透明さが原因で、証明論的な枠組みの構築も妨げられていました。

解決

で、そういう問題をひとつ解決すると、それが論文になります。わたしの論文では、

takuro-logic.hatenablog.com

で少し触れた、2種類の否定を考えて、それらを「融合」させれば関連性論理の否定がきれいに得られるよということを示し、さらに、そのアイディアに基づけば証明論も簡単に作れるということを示しました。

こうやって問題が解けると、とりあえず「気持ちいい」のですが、学術的には、上に述べてきた背景があるので、単なるパズル解きではない、次のような価値をもっているということで評価されることになります。すなわち、

  • 多様な否定に対する統括的な理解
  • 可能世界意味論 (とそれに対応する証明論) の応用範囲の拡張 (これも多様性と統括性の一種ですね)
  • 統括的な枠組みを背景とした、(関連性論理という) 特定の論理に対するより精緻な理解

などですね。他のトピックでも、みんなだいたいこういうことを考えながら問題を設定し、解き、論文を書いているように思います。もちろん、こういった評価項目におさまらない「おもしろさ」というファクターもあるんですが、それはまた別のお話。