論理学FAQのブログ

授業でもらったコメントに対して書いたリプライを、ブログ形式に編集しました。

必然性の論理は歴史的必然か

2019年6月24日のコメントペーパーより。レジュメは古典述語論理

コメント:授業では命題論理→様相論理→述語論理と進みましたが、歴史的な成立順序は、命題論理→述語論理→様相論理 (→様相述語論理) で合っていますか?もしそうなら、様相論理が述語論理のあとに成立したのは必然的だったのでしょうか?

回答:様相論理がいちばん遅いのは合っているんですが、命題論理と述語論理の順番が逆でしょうね。ちょっと本筋からずれますが、まずこの話をしましょう。

(以下は、わりとざっくりと、思い切ったことを言っているので、識者のご批判を乞いたいところではあります。)

ブールなどの論理代数派を無視して、フレーゲが現代論理学の始まりだとすると、その「始まり」である『概念記法』(1879) においてフレーゲが提示したのは高階述語論理でした。いま授業でやっているのは、「すべてのについて」とか「あるが存在して」のように、個体ないし対象の上の量化(のみ)を扱う論理で、これを現代では1階述語論理と呼びます。対して、「プラトンは哲学者がもつべきすべての性質をもっていた」などに出てくる「すべて」は、個体ではなく、個体がもつ性質を量化しています*1。このような量化を2階量化と呼び、1階の量化に加えてこの2階量化を扱う論理を2階述語論理と呼びます。こうなると、「性質がもつ性質」を量化する3階量化、「性質の性質の性質」を量化する4階量化…と (直観的な理解はともかく) 数学的には青天井です*2。ということで、任意の n 階量化を扱える論理を高階論理と呼ぶのですが、フレーゲの体系はまさにこれでした。

いまのわれわれからすると、命題論理のようなシンプルなところから徐々に複雑な体系が作られてきたように想像されるところですが、じっさいには逆で、最初からいきなり「フルアーマー」の体系が登場したわけです。そしてその後、高階論理の意味ある部分として、1階述語論理が、また命題論理が切り出された、という風に見ることができるのではないかと思います*3。ここでの「意味ある」とは、1階述語論理とは高階論理のなかで意味論的な完全性定理が成り立つ部分 (2階では成り立たない) であり、命題論理とは、真理値表によるシンプルなモデル論が与えられ、決定可能性 (妥当性の機械的判定可能性) が明らかに成り立つ部分であり、というあたりです。

 

前置きが長くなりました。さて、古典的な命題・述語論理と様相論理の関係ですが、必然的かどうかというのは難しいところです。現実の歴史的経緯は次のとおりです。

フレーゲのあと、現代的な論理学の体系はラッセルとホワイトヘッドの『プリンキピア・マテマティカ』(1910-1913)でひとまず完成したと見なされています。様相論理は、この完成した体系に対するある種の異議申し立てとして始まります。問題は、『プリンキピア・マテマティカ』の含意の扱いです。そこでは含意は、この授業でやったように、「前件が偽か、または後件が真のとき真」として定義されます。C.I.ルイスは、この含意は、わたしたちの理解する含意の概念に反しているとして、「厳密含意 (strict implication)」と呼ばれる新しい含意をもつ体系を提案します。文献としては、

academic.oup.com

などですね。

この厳密含意は、わたしたちの表記法で書けば  \Box (A\supset B)、つまり必然的な含意です。こうして、様相的な概念を表現する記号をもつ論理体系が現れました*4。その後、ルイスの体系では含意と密着して考えられていた様相が独立して、それ自体として研究されるようになります*5。そして、1930年代頃には、いまも研究されている代表的な様相論理の体系が出揃ってきます。

ただし、これらの体系はすべて、公理と推論規則によって証明論的に定義されていました。可能世界意味論は、1940年代のカルナップによる先駆的な仕事と、1950年代後半からのクリプキらの登場を待たないといけません (それ以前のタルスキ、マッキンゼーらの代数的な業績も無視してはいけませんが)*6

さて、いまの話の流れで注目しないといけないのは、授業でも何度も強調しているように、可能世界意味論は、可能世界の上の量化によって様相を定義するということです。そして、量化は述語論理によって形式的に表現できますから、次のような翻訳を考えることができます。すなわち、可能世界意味論における

 v(x, \Box p)=1 ( \Box p が可能世界 x において真である)

は、 xRy なるすべての y について v(y,p)=1 ということですから、

 \forall y(xRy \supset Py)

と、述語論理の論理式で記述できます ( Py が「yP が真である」に対応します)。可能世界意味論の初期から、このような様相論理と述語論理の対応は重視されてきました。

以上は、様相論理がある意味で述語論理へと翻訳され、還元されうることを意味します。ではこれは、様相論理はそれ自体としての重要性はもたず、還元先の述語論理だけあればよいということを意味するでしょうか。必ずしもそうではありません。

 

以前も書きましたが、(古典) 命題論理は決定可能 (推論の妥当性が機械的に判定可能) です。対して、述語論理は決定不能です。どのようなプログラムを作っても、妥当性を有限ステップで判定できない推論が出てきてしまいます。すると、命題論理は述語論理の部分ですから、命題論理を拡張していくどこかの段階で決定不能になってしまうということになります。逆に、述語論理を制限していくと、どこかで決定可能になるはずです。

様相論理はまさにその「制限」の一例を与えてくれます。代表的な様相論理の体系は決定可能であり、それゆえ、様相論理と上の翻訳を介して対応する述語論理の部分は決定可能になるからです。これについては例えば、

web.stanford.edu

とくに第7章を見てもらうとよいと思います。

これは、フレーゲの高階論理からその「意味ある」部分として、1階述語論理や命題論理が切り出されてきたのと類比的に考えることができそうですね。高階論理の部分である1階述語論理のさらにその一部分を、決定可能性という観点から意味あるものとして切り出したのが、様相論理 (ないし翻訳を介したその対応部分) である、という見方です。

C.I.ルイスの元々の問題意識は含意でしたから、述語論理 (量化子) がなくても、命題論理さえあれば、様相論理は生まれたかもしれません。その意味で、述語論理のあとに様相論理がくるのは必然的ではありません。他方で、述語論理が存在していなければ、上に述べたような、様相論理のもつ「意味」が見出されることはなかったでしょう。その意味では、述語論理は様相論理の発展にとって必要であったとは言えるのではないでしょうか。

*1:「…の上の量化」とか「…を量化する」とか表現には馴染みがないと思いますが、要するに、「すべて」と言っているときの「すべて」の範囲に入るものの種類は何かという話です。

*2:性質とは要するに集合のことである、という見方に馴染んでいる人なら、個体の上の量化、個体の集合の上の量化、集合の集合の上の量化…と考えてもらえればよいです。

*3:このあたりを説明している文献があったと思いますが、いま思い出せません。すみません。

*4:ルイスよりもさらに前、MacCollという人が、1880年代に様相演算子をもつ論理を考案していたみたいですが、残念ながら広く知られずに終わったようです。

*5:このあたりの経緯は、後期にもう少し詳しくやります。

*6:以上の様相論理の発展史については

plato.stanford.edu

を参照しました。