C.I.ルイスの厳密含意 (3)
ずいぶん間が空きましたが、しれっと再開します。続くかどうかは微妙。ともあれ、厳密含意の話が途中で終わっていたので、それをしめくくりたいと思います。
ここまで2つの記事で、C.I.ルイスの厳密含意がどのような問題意識とどのような着想のもとで生み出されたのかを見ました。
ここでは、厳密含意の何がダメだったのかを考えます。 「え、厳密含意ダメなの?」と思われるかもしれませんが、厳密含意のパラドクスというのが生じてしまいます。
これらが(少なくともルイスが意図していた体系では)成り立ってしまいます。 は厳密含意を表します*1。
前回見たように、厳密含意 は必然的な実質含意です。
すると、いま風に言うなら*2、 が真なら、すべての可能世界で が真ということですから、もちろん もすべての可能世界で真です。つまり が真ですね。 のほうも同様です。というわけで、上の2つの推論は妥当です。
そして、これらはそれぞれ
- 必然的に真な命題 () は、任意の命題から(厳密)含意される
- 必然的に偽な命題 () は、任意の命題を(厳密)含意する
ということですね。ここでの と はまったく関係のない命題でもかまいません。 に「ソムタムおいしい」(必然的真理)とか、そして には「」とか入れてみてください。これは、以前に見た実質含意のパラドクス
とほとんど同じ形、同じ状況です。以前はたんなる「真な命題」だったのが「必然的に真な命題」に、「偽な命題」が「必然的に偽な命題」に変わっただけで、まったく関係のない命題のあいだに含意関係が成り立ってしまう、という事態は同じです。
じつはルイスは「厳密含意にかんしてはこれでいいんだ!」と力説しており*3、その議論を検討する必要はあるかもしれませんが、やはりどうやっても無理があるように思います。というわけで、厳密含意のパラドクスは「実質含意に代わる適切な含意を見出す」というプロジェクトにとって致命的であったという結論にして、次に進みましょう。検討したいのは、厳密含意の何がダメだったのか、です。
こういうことではないかと思います。ルイスは、含意は前件と後件の必然的結合に存すると考えて必然性概念を導入しました。これはいいんですが、問題は結合のほうに十分気を配れていなかったことではないか。ひとつの命題を単独で考えることと、ふたつ(以上)の命題を、連言でも選言でも含意でも何でもいいんですが、とにかく結びつけて考えることとは何がちがうのか、彼はあまり気にしていないように見えるのです。これが、厳密含意のダメだったところではないでしょうか。
「とはいえ結合ってなによ」と思われるかもしれませんが、それほど難しいことではないでしょう。 という命題が成り立つかどうかを 単独で考えているときと、 という前提のもとで が成り立つかどうかを考えているときでは、ちがうことが起こっているだろうということです。もう少し言えば、 を考慮に入れることで、わたしたちは、 単独で考えていたときとは文字通り異なる前提のもとで、あるいは異なる視点、異なる文脈、異なる可能性のもとで考えている、ということです。
このように考えれば、厳密含意のパラドクス はブロックできる見込みが出てきます。 が必然的に成り立つとしても、それは「いまこの視点のもとで考えれば」の話です。 という前提を置くことで、私たちは別の視点に移動します。そしてその新しい視点のもとでは、 が(必然的に)成り立つかどうかは、以前とはまた別の話です。つまり、 という前提のもとで必ずしも が成り立つとはかぎりません。言い換えれば、 が必然的に成り立つとしても、" ならば "が成り立つとはかぎりません。
私見では、(厳密含意のある意味で正統な後継者である) 関連性論理の3項関係意味論のベースにあるのが、この「複数の命題を結びつけて考えると視点が移動する」という考え方です。歴史的にはそう単純な話ではありませんが、そのような合理的再構成が可能ではないかと思っています。つまり、厳密含意に欠けていた「命題同士の結合」についての洞察を補ってやることで得られたのが、関連性論理の含意 (relevant implication) だということです。
3項関係についてもそのうち書きたいですね。ともあれきょうはこの辺で。