論理学FAQのブログ

授業でもらったコメントに対して書いたリプライを、ブログ形式に編集しました。

森田真生『計算する生命』

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本書所収の論考が『新潮』に連載されているのを読んだとき、わりと興奮したのを覚えています。つねづね自分がおもしろいと思っているポイントをみごとに捉えていたからです。それらの論考がこうしてまとまって出版されたことをうれしく思います。

ちょうど久保明教さんの『機械カニバリズム』が出版された頃とも重なっていたと思います。こういった刺激的な作品を読んで、自分のなかでも焦点が合ってきた気がしていた時期です。

 

ともあれ、計算やテクノロジーによる私たちの自己変容がテーマです。自己変容というのは、計算やテクノロジーが私たちを変えてしまうというよりは、私たちにはどうも、計算やテクノロジーに触れるなかで、自ら変わろうとしてしまうようだ、というニュアンスです。

小石や粘土板から始まって、図や式、さらには電子計算機まで、私たちはさまざまなデバイスを操って(広い意味での)「計算」をしています。計算のいいところは、操作に一定習熟してしまえば、意味がわからなくても答えが出るところです。これ自体、人類の大きな発明であるわけですが、それにもましておもしろいのは、機械的な操作に身を委ねつつも、やはり人間はその計算の意味を「わかろう」としてしまうところです。そして、わかろうとしているうちに、私たちの認知や直観や概念や、そういったものが変わってしまう、というところです。

『機械カニバリズム』で描かれた将棋AIと棋士のあいだの折衝において、もっとも印象的だったのは、どうにも「わからない」AIの指し手の感覚を自ら体得しようともがく棋士の姿でした。『計算する生命』では、自律的に展開していく計算を「わかろう」とするなかで押し広げられていく、私たちの生命の可能性が生き生きと描かれています。

 

ここで我田引水するなら、『計算する生命』のエピグラフでも使われているハッキング。彼が提示する「デカルト対ライプニッツ」という図式も、森田さんの「「わかる」と「操る」」と深く関係するものと読めるでしょう。

また、本書のような広く読まれる本のなかで、これだけフレーゲが大きく扱われているのはとても嬉しいことですが、そこで引用されている「種子の中の植物のようにであって、家屋の中の梁のようにではない」という比喩は、ウィトゲンシュタインを経由して、ダメットの証明論的意味論に大きな影響を与えています。

本書でも大御所カントの「アプリオリな総合判断」にかんする議論が引かれていることからもわかるように、この「計算を通じた自己変容」というのは、論理や数学の哲学のど真ん中トピックだと思っています。ハッキング風に言うと「perennial」な(姿を変えながら繰り返して現れてくる)トピック、でしょうか。本書はそれをとても鮮やかに描いてくれています。

自分の仕事はこのトピックを、論理学の具体的な言葉に落とし込んで、なるべく厳密に説明をつけていくというところなのかなと思ってます。

 

さいごに、終章「計算と生命の雑種」について。この前会ってお話させてもらったときに、『新潮』での連載時といまとではかなり自分の重心が移ってしまって…とおっしゃってましたが、それが現れているのがこの終章なのかなと思います。

私としては、ここでの森田さんはちょっと「正しすぎる」ように感じました。

計算がおもしろいのは、すでに決まっている正しさの基準に沿って操作すれば大丈夫だからではなく、むしろ、私たちの正しさの基準を思わぬ方向へ押し広げてしまうような不思議な力をもっているからです。

そのはずなんですが、終章の議論はどうしても、すでに決まっている正しさに収斂してしまうような息苦しさがあります。「謙虚」や「応答可能性(責任)」というキーワードがそれを示しているように思います。

これはおそらくは、森田さんの責任というよりは、どんどんエシカルになろうとしている社会に対する、私の息苦しさにすぎないとは思いますが、でも、もう少し「わからない」方向へ進めないもんですかね。