論理学FAQのブログ

授業でもらったコメントに対して書いたリプライを、ブログ形式に編集しました。

論理が開く世界―京都新聞夕刊「人文知のフロンティア」寄稿

2020年3月25日京都新聞夕刊に寄稿させていただきました。「人文知のフロンティア」というシリーズの1回なので「論理学は人文学だ」というオチにしていますが、ともあれ中身を楽しんでいただければ幸いです。「論理が開く世界」は新聞社の方に付けていただいたタイトルです。

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ケーニヒスベルクの街を流れるプレーゲル川に、中洲を経由して両岸を結ぶ7本の橋がかかっていた。いまはロシア領でカリーニングラードと呼ばれているが、当時はまだプロシア領である。街の人たちが川沿いを散策しているうちにある問題を思いついた。この7本の橋をすべて、重複なしに一度ずつ渡るような、ひとつづきの散策ルートは可能か。

この「一筆書き」問題が、天才数学者オイラーのもとに持ち込まれた。王道的な数学とは一見無関係なこの問題に、彼はなぜか興味を惹かれたようで、解決はほどなく、1735年の論文で発表された。答えは、一筆書きは不可能。7本の橋をすべて通過するようなルートには必ず重複が含まれることを、オイラーは証明したのである。

現代のグラフ理論の先駆けとして数学史上でも名高いこの証明だが、20世紀後半に活躍した哲学者、マイケル・ダメットのお気に入りの例でもあった。論理的な推論のもつ力と、そこに潜む根本的な謎を鮮やかに示す事例として、彼はいくつかの著作でこの証明を引き合いに出している。

オイラーの証明は、「7本の橋をすべて渡った」という前提から、誰もがその正しさを認める推論の積み重ねを経て、「どこかの橋を重複して2回渡ってしまっている」という結論へと至る。だから、前提が正しいなら結論も絶対に正しい。「絶対に」と言い切れるところが論理的な推論の力である。

他方で、7本の橋を通過したという情報さえあれば、この証明を利用して、その人がどこかの橋を2回渡ったことを、実地に検証しなくても、例えば自宅に居ながらに知ることができる。論理的推論は、直接見たり触ったりできる範囲を越えたところにまで、私たちの認識を拡大してくれる。これもまた、論理的推論の力である。

いや、そんなうまい話があるか、とダメットは言う。絶対に正しいというのは要するに「当たり前」ということだ。ふつう、当たり前のことを言っても情報は増えない。しかし、当たり前の推論を積み重ねることで、たしかに新しい情報が得られることをオイラーの証明は示している。まるでリスク無しの投資である。どうしてそんなことが可能なのか。

周りから手に入る情報を前提として推論を行い、その結論に基づいて行動する。「推論主義」を標榜するアメリカの哲学者ブランダムは、これが私たちの根本的なあり方だと言う。私たちは推論する動物なのである。論理的推論の可能性を問うダメットの疑念はまさに、私たちの存在の根幹部分に向けられている。

唐突だが例えば、公共料金引き落としの前日、「口座の残高は残っているはずだ」と推論する。「はずだ」は推論のしるしである。そこには、自分の判断への確信と同時に、直接確かめてはいないという不安感が表されている(しばしば不安は的中する)。ダメットによれば、このような日常的な推論だけでなく、絶対的に正しいとされる論理的推論でも、厳密に言えば「はずだ」がくっついてくる。推論はどこまで行っても、そうなっている「はずだ」に留まり、実地に検証した「である」には届かない。

面白いのは、にもかかわらず、私たちはこの「はずだ」を、当然のように「である」に読み換え、推論の結論を、あたかも直接確かめた事実のように受け入れていることである。これでいいのだろうか。よくないかもしれない。でも仕方ない、これが私たちなのだとダメットは言う。正当化できない読み換えをやってでも、実地検証の範囲を越えて新しい知識を得ようとする。私たちはそういう存在なのである。

もう一歩踏み込もう。実地検証の範囲では、私たちと世界は言わば密着している。直接確かめられるものだけが存在するものである。推論がもたらすのは、直接見ることはできないがそうなっている「はず」の世界がそこに存在するのだという、私たちと世界の間の新しい関係性である。哲学的には実在論と呼ばれる。推論的動物たる私たちは、いつの間にか、世界のあり方についてのある一定のコミットメントも背負い込んでいるのである。

ダメットの破壊的な、しかし精緻な議論は、19世紀後半から爆発的に発展した形式論理学の成果に支えられている。大学で授業を受けた方はご存知のとおり、手法的にはほぼ数学になってしまって、論理学者たる私の書く論文も記号だらけだが、依然としてその関心は「私たちは何ものなのか」という問いに向けられている。その意味で、論理学はいまもなお、人文学なのである。

(2020年3月25日 京都新聞夕刊)

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(追記)

本文中で言及したダメットの議論は

philpapers.org

philpapers.org

の第7章"The origin and role of the concept of truth"で展開されているものです。この論文、この章が好きなわたしは、ダメットの正統的な読み手ではないのだと思いますが、「やっぱりちょっと実在論も必要なんちゃうかな」と言ってしまうダメットはやはり魅力的なんですよね。