論理学FAQのブログ

授業でもらったコメントに対して書いたリプライを、ブログ形式に編集しました。

【発掘】ライプニッツ対デカルト

昨日のエントリ

takuro-logic.hatenablog.com

にわりと反響があったので、「ライプニッツvsデカルト」の話を改めてまとめようかと思ったんですが、以前に別の授業で課題レポートのサンプルとしてまとめたのを思い出したので、引っ張ってきます。いつもとはだいぶ文体がちがいます。

以下のまとめで強調しきれていないのは、ハッキングの「雑多主義」でしょうか。ハッキングは、証明には、少なくとも2種類の、そして一見相反していると思われる理念が共在しているということを指摘するわけですが、そこから、両者を調停しなければならないとか、あるいは一方を他方に還元しようとか、そういう方向にはいきません。証明というのは (そして数学というのは) 雑多な考え方や方法の寄せ集めであって、その雑多さこそをちゃんと捉えないといけない、というのが彼の考えです。ウィトゲンシュタインですね。 

---

証明についてのデカルト的理念とライプニッツ的理念

本稿では、イアン・ハッキングの提示している2つの証明の理念、「デカルト的理念」と「ライプニッツ的理念」について説明し、これらを取り巻く現代数学の状況とその問題点について述べる。ハッキングは著書『数学はなぜ哲学の問題になるのか』*1 において、数学が哲学的に興味深いものである一つの理由は「証明」にある、と論じている。証明によってわれわれは「新たな事実、そしてしばしばありそうもない事実を完璧に満足の行く形で」納得するという体験をする。証明のもつそのような効力が、ある種の哲学的な謎として、歴史上の哲学者を惹きつけてきたとハッキングは言う。「たんなる言葉、たんなる考え、ときにはたんなる図像でしかないものが、いかにしてそういう効力をもちうるのだろうか」(同書邦訳p.1、以下ページ・節番号のみの参照は同書邦訳から)。

もちろん、そのような効力をもちうるのは、ある一定の性質を満たした「よい」証明だけであり、また「よい」証明は一種類だけではない。ハッキングは、証明が満たすべき理想、理念としては、少なくとも「デカルト的証明」と「ライプニッツ的証明」の二種類があるとする。

まず、証明についてのデカルト的な理念とは、証明とは「いくらかの省察と学習ののち、何から何まで理解し、「一挙に」把握できる」ようなものであるべし、という理念である (p.26)。これが「デカルト的」と呼ばれるのは、このような証明がもたらすのは、デカルトが言うところの「明晰判明な知覚」のようなものと考えることができるからである。たとえば、幾何学の証明問題を解こうと苦闘しているうちに、ついにうまい補助線の引き方を思いついた瞬間、それまでの試行錯誤による混乱が晴れて、事態がクリアに見えるようになる。このような「わかった」という感覚をもたらす証明こそが「よい」証明である、というのがデカルト的な証明の理念である。

次に、ライプニッツ的な証明の理念は、証明をする者や読む者の心理的な状態や感覚ではなく、証明の形式にかかわる。すなわち証明は「すべてのステップが慎重に配列され、一行一行機械的なやり方でチェックされるような」ものでなければならない(p.26)。代数計算のように、予め定められた規則に厳密に従い、論理の飛躍なしに結論にまで至るような推論の連鎖が、ライプニッツ的な理想の証明である。彼はじっさい、そのような機械的な証明を可能とするような記号法 (普遍記号法) を構想していた。

デカルトライプニッツという17世紀の哲学者たちをシンボルとするこれらの証明の理念は、ハッキングの見立てによれば、20世紀以降の現代において大きな変容の時期を迎えている。まず、19世紀後半から20世紀前半に確立された形式論理学によって、ライプニッツの普遍記号法の構想は実質的に実現したように見える。証明はすべて数式のような記号によって表わされ、正しい規則に従った推論の連鎖になっているかどうかを機械的に検証できるようになった。そして、こうした証明の検証や、さらには証明の構成そのものまでが、計算機(コンピュータ)によって行われるようになってきている。問題は、計算機によって検証や構成がなされた証明は、必ずしも人間に納得や確信をもたらすようには思えない、ということである。あるいはそもそも、その計算機が正しく動いていることは何によって保証されるのだろうか (1.22,1.33節参照)。ライプニッツの構想はあまりにも高度に実現されてしまったがために、人間にとっての「よい」証明の理念を飛び越えてしまったかのようである。

他方で、デカルト的理念もまた危機を迎えている。数学の主題があまりに高度化・抽象化・専門化してしまったがために、人間が行う (機械的ライプニッツ的ではない) 証明もしばしば、きわめて長く、難解なものとなりがちである。たとえば、有限群の分類定理の証明は2巻本という大著となり、専門家であっても一人でそれを読み通す者はいないと言われるほどである (3.11節参照)。また、2012年に突然、ABC予想を証明したという原稿をインターネット上にアップロードした望月新一宇宙際タイヒミュラー理論は、きわめて難解で、望月に近しい数人しか理解者がいないと言われている*2。これらの証明は、数学的には重要であるにもかかわらず、読む者にデカルト的な明晰判明性をもたらすようなものではないのである。

このように、ライプニッツ的理念については、計算機の発展により、それが「よい」証明の理念であるのかということについて疑念が生じつつあるのに対し、デカルト的理念は、数学それ自体の高度な発展によって、実現がそもそも困難な理念となりつつある。これが、ハッキングによる2つの理念にかかわる現代的状況の診断である。

 

---

ちなみに、これは、いわゆる「論述型」レポートのサンプルです (出題した題目はまた別のテーマです)。「君の意見は書かなくていいので、授業で聞いたことをびしっとA4・2ページにまとめてください」と指示しています。

*1:Hacking, I. (2014). Why Is There Philosophy of Mathematics At All?: Cambridge University Press, (金子洋之・大西琢朗訳, 『数学はなぜ哲学の問題になるのか』, 森北出版, 2017 年).

*2:Hartnett, K. (2015). ‘Hope Rekindled for Perplexing Proof,’ in Quanta Magazine. https: //www.quantamagazine.org/hope-rekindled-for-abc-proof-20151221, 邦訳 「Papers from Inter-Universe異世界からきた」論文を巡って : 望月新一による「ABC 予想」の 証明と、数学界の戦い」https://wired.jp/special/2016/shinichi-mochizuki/, 2016 年 (2018 年 1 月 20 日アクセス).