論理学FAQのブログ

授業でもらったコメントに対して書いたリプライを、ブログ形式に編集しました。

トートロジーは「無意味」

2019年5月7日のコメントペーパーより。レジュメは古典命題論理

コメント (1):トートロジー、たとえば「 A ならば  A である」ということに意味はありますか?

コメント (2):課題を解いているぶんには、答えありきというか、言われてみれば当たり前なことをなぞっているような感覚がありました。「推論」という単語に感じられるような生産性というか、新しいものが出てくるような感じは、論理学を学んでいけば、この先出会えるのでしょうか。

 回答:別々の方からいただいたものですが、同趣旨の質問、コメントだったので並べました。ウィトゲンシュタインの『論理哲学論考』に次のような一節があります*1

4.461 …トートロジーと矛盾は無意味である。…… (たとえば、いま雨が降っているか降っていないかどちらかだということを知っているとしても、それで私が天気について何ごとかを知っていることにはならない。)

トートロジーではない命題、たとえば「雨が降っている」という命題は、考えうる可能な状況たちを2種類に分類し、その観点から現在の状況を特徴づけるという機能をもっています。分類とはすなわち、その命題が真になる状況 (この場合は雨が降っている状況) と、 それが偽になる状況 (雨が降っていない状況) の2種類です。そしてもちろん、「雨が降っている」は、いま現在の状況が前者に属すると言っています。命題は、可能な状況たちのあいだに一定の境界線を引き、その境界線によって、現在の状況を特徴づけるわけです (「雨は降っていない」であれば、境界線の引き方は同じですが、現在の状況が後者に属すると言っていることになりますね)。以上は、トートロジーではない命題の話です。

さて、トートロジーについて考えましょう。たとえば「雨が降っているかいないかのどちらかだ」のようなトートロジーは、現在の状況を含め、どのような可能的状況においても真になるような命題です。偽になるような状況がないので、境界線は引かれないということになります。これは、トートロジーが「状況を分類することによっていま現在の状況を特徴づける」という効果をもたないということを意味します。言い換えれば、トートロジーはいま現在の状況がどのようなものであるかについての情報をもたないということです (矛盾もこの裏返しとして考えればよいです)。ウィトゲンシュタインはこの意味で、トートロジーと矛盾は「無意味」と言っています*2

妥当な推論についても同じことが言えます。たとえば

 A\wedge B\models A

は妥当な推論です。前提  A\wedge B が真であるような状況とは、 A Bの両方が真である状況であり、したがって、その状況では  A は真だからです。「何を当たり前のことを」なのですが、まさにそれがここでのポイントです。

推論の前提は (それ自体はトートロジーでも矛盾でもないと考えられるので)、可能的状況をある仕方で特徴づけます。しかしここで、上のような推論が妥当なのは、前提によるその特徴づけのなかに、結論もまた真であるということがすでに含まれているからだ、と考えることができそうです。もう少しあからさまに言えば、妥当な推論とは、前提が言っていることの内容にすでに含まれていたこと (の一部) を取り出して、繰り返しているような推論だということになります。つまり、同語反復ですね。

別の言い方をすると、妥当な推論を用いて結論を引き出しても、前提による特徴づけに何ら新しい情報は付け加わらないということになります。逆に、新しい情報を付け加えるような推論は妥当ではないとされるでしょう。

トートロジーや矛盾であれ、妥当な推論であれ、このような観点から見ると、その「情報の乏しさ」「不毛さ」は否定しがたいように思えます。この問題は、ウィトゲンシュタインより遡って、19世紀のJ.S.ミルによっても指摘されており、しばしば「推論のパラドクス」と呼ばれます。

前提で仮定されていることよりも多くのことが結論に含まれているなら、その三段論法*3は誤りである、ということは広く認められている。しかしこれは、じっさいのところ次のように言っていることになる。すなわち、それまでには知られていなかった事柄や、あるいは知識であるとは考えられてはいなかった事柄が、三段論法によって [新たな知識として] 証明されることはこれまでなかったし、そもそもそのようなことはありえない、ということである。(J.S. Mill, A System of Logic, Book II, Ch.3, 1843)

これが「パラドクス」であるのは、論理的推論がそこまで不毛であるとは思えないからです。たとえば数学の証明は、仮定からの妥当な推論の連鎖によって構成されますが、仮定から「当たり前」に帰結するとは思えないような結論がしばしば導かれます。では、どこで推論は「当たり前」ではなくなったのでしょうか。

これは、ものすごく重要でものすごく面白い問題だと思うのですが、論理の哲学では意外とあまり論じられていない印象です。興味のある方は、ダメット「演繹の正当化」(『真理という謎』所収) や手前味噌ですが拙論「間接検証としての演繹的推論」など見てみてください。

もうひとつ、別の形で質問に答えておくと、論理的な推論がかりに不毛だとしてもそれは、その成り立ちを明らかにする学問が不毛であることを意味しません。じっさい、現代の論理学のなかでこれまで知られていなかった多くのことが明らかになっているわけで、この授業ではこちらのほうでの「生産性」や「新しいもの」に注目していただくとよいかなと思います。

*1:ウィトゲンシュタイン (2003). 『論理哲学論考』,野矢茂樹訳, 岩波書店.

*2:ただしすぐ後で

4.4611 しかしトートロジーと矛盾はナンセンスではない。両者とも、いわば「0」が算術の記号体系に属しているように、記号体系に属している。

と注釈をつけているように、彼は、トートロジーと矛盾が、「三角形はおいしい」のようなカテゴリーミステイクや、「走る犬が」のような文法に適っていない非文のような、「ナンセンス」であると言っているわけではありません。わたしたちの形式言語でも、トートロジーも矛盾もれっきとした論理式です。

*3:ここでミルは伝統的論理学における推論形式である三段論法を考えていますが、三段論法にかぎらない妥当な推論一般にもこの論点は当てはまると考えることができます。