論理学FAQのブログ

授業でもらったコメントに対して書いたリプライを、ブログ形式に編集しました。

【便乗】量化の話から(また)論理主義の話

きょうは、新井紀子先生の新著の一節がツイッターでちょっと話題になってましたね。先生の本はこちら:

str.toyokeizai.net

わたしが見たツイートはこちらでした:

参照されているのは、第2章の「AI読みでは、AI人材にはなれない」という節です(Kindle版を買ったので正確な位置が指定できませんが)。

で、新井本ならびに上記ツイートの国語教育にかんする主張については、かんぜんに脇において (あと写像や集合の概念はこの話には本質的じゃないんじゃない?とかいう疑問も脇において)、せっかくなので、たんに便乗する形で量化の話をしましょう。

 

上の例で話題になっているのは、要するに、自然言語の多重量化文の意味を理解するのは難しい、ということですね。多重量化とは、ざっくり言って、「すべて」「存在する」「誰も」「誰か」といった量化表現が複数登場する文のことです。ここでの「意味」とは、これまたざっくり言って、論理的な意味、すなわち、当該の文が他のどのような文から帰結するのか、また反対にどのような文を帰結するのか、という推論関係です。

上の例が面白いのは、ふつう、論理学で問題にするとすれば、

  1. 誰もが、誰かをねたんでいる。
  2. 誰かが、誰もからねたまれている。

のペアだと思うんですが、それとはちょっとちがうペアなんですよね。ちなみに、このペアは、

www.keisoshobo.co.jp

の第1章冒頭に出てくるペアにほかなりません*1。ま、「誰も」「誰か」と能動・受動の組み合わせを枚挙していけば、だんだん混乱していくのはそれはそうなので、新井先生の論旨全体にはそれほど影響はないとは思います (上記2に当たる文も考察されていますし)。

もちろん、新井本のペアにしても『大全』のペアにしてもちょっと考えれば違いはわかるはずで、一部には「こんな簡単なこと」という反応もありました。そういう方のために(?)『大全』の同箇所では、歴史上の「誤謬」が挙げられています (p.20)。アリストテレス、バークリ、そして数学の無限小です*2。その元ネタは

books.google.co.jp

とのことです。上のリンクから当該箇所が読めます。

わたしとしてはやっぱり、コーシーの事例に注目していただきたいと思いますね。たとえば、こちら

www.jstage.jst.go.jp

のp.23にある例1です。コーシーは「連続関数列からなる無限級数が収束するならば、その和は連続関数となる」という命題を"証明"したのですが、じつは、この条件では弱くて、「無限級数収束する」ではなく「無限級数一様収束する」でなければ証明は通らない、ということがわかったという事例です。この「収束」と「一様収束」の違いが『大全』ペアの1と2の違いにほかなりません*3

コーシーと言えば、上記論文のテーマである「解析学の厳密化」を主導した、押しも押されもしない大数学者です。そんな大数学者でも、複雑な証明のなかでは、多重量化にかかわる見落としをしてしまう、というわけです。

 

さて、ここからが本題です。わたしは別に「コーシーだって間違うくらい多重量化は難しいんだ」と主張したいわけではないんです。フレーゲの話がしたいんです。解析学の厳密化が19世紀の前半から中頃、その雰囲気にどっぷり浸かった中で、1879年にフレーゲの新しい論理学が誕生します。

www.keisoshobo.co.jp

自然言語では理解に困難が生じる多重量化文の論理的意味を、人工的な形式言語によって明確に表現できる、というのが、この概念記法の大きなセールスポイントです。ということで、フレーゲが、コーシーの見落としも含め、厳密化の潮流をどのように眺めながら、概念記法を作ったのかを想像したいのです。

まず第一に、おそらく、一様収束性のような重要な概念が、数や関数、図形といったいわゆる「数学的対象」についての考察によって、というよりも、「すべて」や「存在する」といった論理的な概念を本質的に巻き込む形で析出されたことが、強い印象を与えたのではないかと想像します。つまり、これからの数学は論理の力で概念を作っていくのだ、と。

第二に、にもかかわらず、コーシーの見落としが示すように、自然言語に頼った論理的な定義や推論は、こうした新しい数学を推進するには非力です。というわけで、フレーゲの概念記法は、まさに、この新しいアプローチを促進するために開発されたように思えます。その後、彼が本格的に展開することになる「論理主義」プロジェクトもこの流れで理解できるでしょう。

とすると、しばしば (あるいは一昔前では) フレーゲは、認識論的に危うい数学に確実な基礎を与えようとする基礎づけ主義者のように扱われますが (じっさいフレーゲ自身もそういう言い方をしたりするわけですが)、そういう見方はあまり適切ではないように思われます。もちろん、これは当たり前といえばあまりにも当たり前の見方で、というのは、いわゆる「数学の危機」は、フレーゲの論理主義プロジェクトがまさに完成しようとするときにもたらされたラッセルのパラドクスから始まるからです (先に言っといてくれたらよかったのにね)。

フレーゲが見ていたのはコーシーの見落としです。しかし、これが数学の「危機」なわけがありません。これは危機というより、研究がスムーズにいかず、可能なはずの豊かな発展が阻害されているという状況でしょう。つまり、フレーゲが取り組んでいたのは「研究の阻害要因を取り除き、新しい数学の発展を促進する」プロジェクトと理解するのが自然でしょうね、ということです。 

 

*1:上記ツイート主さんは、飯田隆『言語哲学大全I』が元ネタだとツイートされてましたが、新井本のなかでは同書は明示的には参照されてはいないようです。

*2:アリストテレスについては、飯田先生は、多重量化についての論理的誤謬ではなく、必要な前提を明示していないだけではないか、というご意見のようですが (注2)。

*3:むかし勉強会で読んだ杉浦光夫「解析入門I』でも丁寧に解説されていて、よく覚えています(p.303)。