2つの様相演算子、一緒に暮らしていくならどっち
2019年5月27日のコメントペーパーより。レジュメは様相命題論理。
コメント: と は双対なので、どちらか一方があればもう一方を表せるということですが、使えるのが一生どちらかだけと言われたら、どちらかを選ぶ理由はありますか?
回答:愛着のようなものを聞かれているみたいでおもしろいですね。とはいえここでは、「 と 、どちらが概念的に根本的か?」という質問として理解して答えます。
確認しておくと、古典論理上の様相論理では、任意の論理式 について、
- は と同値なので、必然性は「 の否定が不可能であること」として定義でき、反対に、
- は と同値なので、可能性は「必ずしも が否定されるわけではないこと」として定義できる、
のでした。そこで、一方を他方で定義するとして、どちらを定義項とし、どちらを被定義項と見なすか、ということですね。
「自分は古典論理の否定はろくでもないものだと思っているので、双対関係も認めない、したがって一方を他方で定義するとかも考えない」という逃げ方はひとつありますね。ま、これは逃げですね。
少し前のエントリ
でも述べたように、私の考えでは、様相演算子を含む論理結合子は、推論の中に含まれる論理的な関係を命題として表現することを可能にする記号です。上のエントリでは含意と連言について書きました。
では、必然性と可能性についてはどうでしょうか。こちらのエントリ
で、様相演算子は、推論の中に含まれる (含意だけによっては完全に明示化できない) 様相へのコミットメントを明示化すると考えるとよいのではないか、と書きました。
そこで話をしたのは必然性だけでした。要するに、 は推論の妥当性、すなわち「前提が真ならば結論も必ず真」に含まれる「必ず」を明示化するのだということです。
では、 はどこから来ているのかというと、必然性と対比させるならば、推論の非妥当性、すなわち「 は真だが は偽であるような場合がありうる」の「ありうる」を明示化する表現と考えるのが自然でしょう。
かなり乱暴に話ししていますが、論理結合子としての様相演算子の起源は、推論の妥当性・非妥当性の概念にあると考えることができるのではないか、という提案です。
ここから、必然性と可能性のちがいの話です。上で述べたことからわかるように、必然性は推論の妥当性 (必然的な真理保存)にかかわります。可能性は推論の非妥当性 (反例の存在) にかかわります。したがって、必然性と可能性のどちらを根本的と見なすかという問題は、推論の妥当性と非妥当性のどちらを根本的と見なすかという問題に帰着します。(もちろん、妥当性の否定が非妥当性であり、非妥当性の否定が妥当性ですから、両者は相互に定義可能であり、どっちでもよいとも言えるのですが、それは必然性と可能性の双対性の時点でも同じことです。)
人間はいろいろなことを信じ、そしてそれを主張して人に伝えますが、そういった信念や主張はバラバラになされるわけでなく、他の信念や主張と関係づけられます。そのような関係づけのうち「 なんだから だ」として推論を行ったりその正しさを受け入れたりする実践と、「 だからといって とはかぎらない」として推論を批判しようとする実践と、どちらがわれわれにとって根本的でしょうか。
これは、人間の実態としてどうなのかという経験的な問題としても、どちらを根本的と見なせば、人間の言語活動の全体をうまく説明できるかという理論上の問題としても考えることができるでしょう。わたしはいまのところ、後者の問題意識のもとで、必然性のほうが根本的でないかと考えています。なぜかを説明すると長くなるのでここでやめます。