論理学FAQのブログ

授業でもらったコメントに対して書いたリプライを、ブログ形式に編集しました。

論理学の目的についての抽象的な話

2019年10月7日のコメントペーパーより。レジュメは非古典的な含意と否定I

コメント:論理学の目的というのは、妥当性を突き詰めていって何かの役に立てることなのか、それとも妥当性を高めることそれ自体なのでしょうか。

回答:「論理学は推論の妥当性の研究であるのはわかったが、その研究によってどんないいことがあるのか」という質問と理解して答えます。

ぱっと思いつくのは、いろいろな推論の妥当性を検討し、その規準を明確化することで、私たち人類がより賢く思考し、互いに議論できるようになる、という効果ですね。でも、そのような効果を狙って論理学をやっている人はほとんどいないような気がします。人々によりよい推論をできるようになってもらう、というのは、論理学の仕事ではなく、クリティカル・シンキングなどの別科目の仕事と言ってもよいかと思います (もちろん、同じ1人の人が両方に取り組むことはありえます)。

では、そうした「社会実装」にあまり興味のない論理学者がなぜ推論の妥当性の研究に取り組むのかと言えば、それが、世界と人間のあり方を明らかにするための (ひとつの) 生産的なアプローチだからなのだと思います。

ある一定の領域 (例えば「数」であるとか「知識」であるとか「時間」であるとか) の成り立ちを理解したいとします。このとき、文系理系問わず、アプローチの仕方はさまざまありえます。数の認知を脳科学的に調べるとか、ある科学的知識がどのように形成され定着してきたかを歴史学的に明らかにするとか、物理学の観点から時間を解明するとか、ですね。論理学もそのようなさまざまなアプローチの仕方のうちのひとつです。すなわち、当該領域の成り立ちを理解するときに、「そこではたらいている推論とはどのようなものか」、そして「それらの推論の妥当性の規準はどのようなものか」という問題意識からアプローチするのが論理学です。

とくに、19世紀後半からの現代論理学の発展の中で、こうした推論の妥当性についての問いは、自然と「言語と世界の関係」とか「人間と機械 (コンピュータ) のちがい」といった問題群を巻き込み、そして、これらの問題に対して他の領域にはない独自の洞察をもたらすことがわかってきました。言ってしまえば、ほんとうにほしいのはこうした「独自の洞察」なわけですが、論理学者は、推論の妥当性への問いを、それを引き出すためのトリガーとして使っている、と理解してもらえればよいのではないかと思います。

ここではきわめて抽象的に書きましたが、これからの授業の中でこうした「独自の洞察」をなるべく多く紹介できればと思っています。