論理学FAQのブログ

授業でもらったコメントに対して書いたリプライを、ブログ形式に編集しました。

述語論理と様相論理、どっちを先に教えるか

きょうは、いつもとちがう形式です。せっかくツイッターで言及いただいたので。

たしか去年までは、命題論理→述語論理→様相論理 (→ 様相述語論理) という順序でやっていたんですが、どうも教えるときの自分のノリがイマイチだなということで、今年度から述語論理の前に様相論理を教えることにしました。学生の理解度が格段に違うとかはなく、自分としてはこちらのほうがしっくりくるという程度の違いですが、理由をかんたんに述べておきます。

まず、いま教えているクラスの出席者は文学部の学生が大半なので、命題論理の次に述語論理を導入する動機がどうもしっくりこないんですね。つまり、イプシロン・デルタ論法で苦しんできた学生ではないので、あれをきれいに書けるありがたみがわからないだろうということです。

では、命題論理の次に様相論理を導入する動機は何なのかというと、自分としては、いちおう次のように整理しています*1。命題論理に含意 (実質含意) という結合子があり、 以前に

takuro-logic.hatenablog.com

というエントリでも書いたように「含意は推論関係を一つの論理式で表すための記号である」と説明するわけですが、推論のもつ意味合いのすべてを表現できるわけではありません。すなわち、実質含意は、推論 (帰結関係) に含まれる「前提が真ならば結論も必ず真」という様相を表現することはできません。

ブランダムは、論理結合子とは、推論に含まれる論理的関係に対する暗黙のコミットメントを明示化する (命題として表現する) 表現なのだ、と言います。この考え方に基づけば、たしかに、含意は、推論に含まれるコミットメントの一部を明示化してはいるでしょう。でも、すべてが明示化されているわけではなく、「必ず」という様相が明示化されずに残っています。そこで、それを明示化するための記号としての様相演算子を導入しましょう、という筋書きです。

さて、様相演算子は、可能世界の上への量化によって定義されます。すなわち、様相へのコミットメントはじつは量化にかかわるものとして分析できる、ということがわかってきます。ここで述語論理の出番です。様相概念のさらにベースにある、量化にかかわるコミットメントを明示化する表現として、量化子を導入しましょうという風に進みます。

もちろん、命題論理のモデル論の時点ですでに、推論の必然性は「すべてのモデルで真理保存的」という仕方で、量化によって分析されてはいるのですが、問題は、そこでは、述語論理のもっとも大きな特徴である多重量化が表立って現れないということです。可能世界意味論では、様相演算子の重なりを扱う際に多重量化が出てきますから、そこからスムーズに繋げられるだろうという目論見です。別の言い方をすれば、イプシロン・デルタの代わりに、様相論理で多重量化で苦労してもらって、述語論理のありがたみをわかってもらいやすくする、ということですね。

 

*1:このとおりに学生さんに伝えるわけではなく、あくまで自分の中での整理です。学生さんにはほのめかすくらいですね。

A・B系列と時制論理

2019年5月20日のコメントペーパーより。レジュメは様相命題論理

コメント:時間 (時制) 論理に興味があります。時間の哲学でA系列・B系列というのと、時間論理はどう関係しますか?

回答:ぜんぜん詳しくないですが、わかる範囲で答えます。

A系列・B系列というのは、マクタガートが提示した、時間系列についての2つの見方ですね。ざっくり言うと、A系列は、時点ないし出来事を、あるときは未来であったものがいつしか現在になり、そして過去になるという推移で捉える見方ですね。B系列というのは、いくつもの時点が並んでいるのをいわば俯瞰して、時点のあいだの「より前」「より後」という関係だけを見る見方ですね。

以前のエントリ: 

takuro-logic.hatenablog.com

で引用したプライアーは、 いまで言う可能世界意味論でモデル化される論理のなかでも、とくに時制論理 (tense logic)に注力した人ですが、彼が言うには、「 p だろう」とか「 p であった」という時制つきの文はA系列に対応し、それらを「より後の時点で  p」とか「より前の時点で  p」などと説明する可能世界意味論はB系列に対応するのだそうです。

 

マクタガートはさいきん邦訳が出ましたね。

bookclub.kodansha.co.jp

プライアーについてはまず

www.sciencedirect.com

あたりを読んでみてはいかがでしょうか。この論文の6節に、A系列・B系列についての彼の考え方がまとめられています。

プライアー自身の著作では、

global.oup.com

や、前出の

global.oup.com

などをどうぞ。

 

様相を「ならば」と「かつ」で定義する

2019年5月20日のコメントペーパーより。レジュメは様相命題論理

コメント:否定 \neg AA\supset \bot という風に表せるが、 \Box \diamondsuit はそういう風に表せなさそう。様相というのは、その意味で、一段"上"な感じがしますがどうですか?

回答:残念でした!表せます!でも「一段"上"」というのは当たっているかもしれません。

まず、否定について確認しておきましょう。古典論理のモデル論で議論するとして、 \botをどのようなモデル  v においても  v(\bot)=0 となるような特別な命題定項として導入します。すると、任意のモデル  v と論理式  A について

  v(\neg A)=v(A\supset \bot)

となるので、 \supset \bot があれば、それらによって \neg は定義できるというわけです。

上のコメントは、 \Box \diamondsuit について同じようなことができないかという趣旨ですね。まず、どのようなモデル  v においても  v(\top)=1 となるような命題定項  \topを導入して、

  \Box A:= \top \supset A;\quad \diamondsuit A:= A\wedge \top

とすれば、それらしいものはできます。

問題は、古典論理の真理値表で考えると、 \top \supset A A\wedge \top も、じつは  A と同じ真理値になってしまうことです。必然性と可能性という様相が、現実性と同じになってしまって「潰れて」しまうわけです。ということで、古典論理では様相を表せなさそうというのは正しいです。

しかし、古典論理で考えないといけない理由などどこにもありません。以前に「加法的連言・選言」と「乗法的連言・選言」にかんして述べたように、古典論理はいろいろな微細な差異を潰すことで成立している論理です。古典論理の真理値表のことは考えずにやりましょう。

他方で、古典論理から離れてしまうと、様相を定義するための土台としての含意や連言ってそもそも何なのかがよくわからなくなりますね。また、同じ理由で、定義する目標としての様相  \Box,  \diamondsuit ってそもそも何なのという話にもなります。ということで、土台作りから始めましょう。

定義 (帰結関係)

 A_1, \ldots, A_n\vdash B A_1,\ldots, A_n から  B が帰結することを表す。 \vdash は次の2つの性質を満たすと前提する。

  \text{(Id) } A\vdash A;\quad \text{(Cut) } A\vdash B かつ  X(B)\vdash C ならば  X(A)\vdash C

ただし、 X(B) B_1,\ldots, Bk, B, D_1,\ldots,D_m のような列を表し( k,m\geq 0)、 X(A) B A で置き換えた  B_1,\ldots, Bk, A, D_1,\ldots,D_m を表す。

ここでの  \vdash は、古典論理やその他、どの論理かを特定せずに、帰結関係 (妥当な推論) について一般的に話すための記号です。

次は、連言・選言とは何かを定義しましょう。

定義 (連言・選言)

次の性質を満たす2項結合子  \wedge,\vee を、それぞれ(加法的)連言および選言と呼ぶ。

 (\wedge)  A\wedge B\vdash A;\ A\wedge B\vdash B;\ C\vdash A かつ  C\vdash B ならば  C\vdash A\wedge B

 (\vee)  A\vdash A\vee B;\ B\vdash A\vee B;\ A\vdash C かつ  B\vdash C ならば  A\vee B\vdash C

真理値表であれ、可能世界意味論であれ、あるいは証明論的な定義であれ、その定義の仕方にかかわらず、帰結関係  \vdash のもとで、以上の性質を満たすならそれを連言や選言と呼ぼう、という趣旨です。もちろん、真理値表で定義される  \wedge,\vee は以上を満たします。

連言・選言と来たので、含意を定義します。含意はまた別の種類の連言、融合積 (あるいは乗法的連言) とセットで定義されます。

定義 (融合積・含意)

次の同値性を満たす2項結合子\circ, \to をそれぞれ融合積含意と呼ぶ。

 ( \circ\to)  A\circ B\vdash C\iff A,B\vdash C\iff A\vdash B\to C

含意も重要ですが、加法的連言とは区別される融合積を使うのがポイントになります。

 

以上が定義をするために使う「土台」です。次はこれらを使って定義するターゲットを定めましょう。まずは、この一般的な枠組みにおける否定の扱いを見ておきましょう。

定義 (否定)

次の性質を満たす1項結合子 \neg否定と呼ぶ。

 ( \neg)  A\vdash B ならば  \neg B\vdash \neg A

否定とは「帰結関係の順序を逆にする」操作なのだという定義です。このようにミニマルな役割のみで定義すると、わりと簡単にこの性質を満たす結合子は定義できます。

命題(否定を定義する)
任意の論理式  C をひとつ固定する。任意の論理式  A について

  \neg A:= A\to C

と定義すれば、 \neg は否定である。すなわち上の(\neg)を満たす。

証明は書くのがたいへんなので省略しましょう。PDFのp.7を見てください。

冒頭に見た  \neg A:= A\supset \bot とちがい、上の定義は  \bot ではなく、任意の論理式  C を使っています。このように定義した否定は、

  \neg A\wedge \neg B\vdash \neg (A\vee B);\ \neg (A\vee B)\vdash \neg A\wedge \neg B
  \neg A\vee \neg B\vdash \neg (A\wedge B); \ A\vdash \neg \neg A

などは満たしますが、

  \neg (A\wedge B)\vdash \neg A\vee \neg B;\ \neg\neg A\vdash A;\ A\wedge \neg A\vdash C

は満たしません (古典論理ではこれらも成り立ちます)。これらを成り立たせるためには、 \neg を定義するために使う  C \to に条件を付け加えなければなりません。それこそ任意の  C ではなく  \bot を使うとかですね。

雰囲気はつかめたでしょうか。必然性と可能性に進みましょう。

定義 (必然性・可能性)

次の条件を満たす1項結合子  \star正の様相 (positive modality)と呼ぶ。

 (\star)  A\vdash B ならば  \star A\vdash \star B

 \Box が正の様相であり、さらに次を満たすとき、  \Box必然性と呼ぶ。

 ( \Box) \Box A\wedge\Box B\vdash \Box (A\wedge B)

 \diamondsuit が正の様相であり、さらに次を満たすなら、 \diamondsuit可能性と呼ぶ。

 ( \diamondsuit)  \diamondsuit (A\vee B) \vdash \diamondsuit A\vee \diamondsuit B

正の様相は帰結関係の順序を保存する演算子です (この観点からすると、上で定義した否定は「負の様相 (negative modality)」にほかなりません)。そして上の定義では、それらのうち、必然性と可能性を、それぞれが満たすべき条件によって区別しています。連言と仲がよいのが必然性、選言と仲がよいのが可能性です。

では、否定のときと同じように、 \Box \diamondsuit も定義しましょう。

命題 (正の様相を定義する)

任意の論理式  C をひとつ固定する。任意の論理式  A について

  \Box A:= C\to A;\ \diamondsuit A:= A\circ C

と定義すれば、 \Box および  \diamondsuit はいずれも (\star) を満たし、さらにそれぞれ ( \Box) および ( \diamondsuit) を満たす。

証明はふたたびPDFを見てください。

以上の定義を古典論理の含意 \supset と連言  \wedge で考えたときに、どう「潰れる」かを確認します。まず、 \Box A=C\supset A \diamondsuit A=A\wedge C とは必ずしも同値ではないですが、 \Box A は (\diamondsuit) も満たし、 \diamondsuit A は ( \Box) も満たしてしまいます。つまり、どちらも必然性でもあり可能性でもあるという、よくわからない演算子だということになります。そしてさらに、 C を命題定項 \top に変えると、最初に述べたように、 \Box A \diamondsuit A A は一致して、様相が完全に潰れてしまいます。

他方で、以上の定義だけの範囲では、もちろん  \Box A=C\to A は(\diamondsuit) を満たさず、\diamondsuit A=A\circ C は (\Box) を満たしません。つまり、必然性と可能性はちゃんと区別されます。ただし、

  \Box (A\to B)\vdash \Box A \to \Box B;
  \Box A\vdash A;\ \Box A\vdash \Box \Box A

といった推論は成り立ちません。これらを成り立たせたいのであれば、含意や連言、それに  C に適切な条件を付け加える必要があります (付け加えすぎると古典論理になって潰れてしまいます)。

また、こうした古典論理よりも弱い含意や連言を扱うときにいちばんお手軽なのは、可能世界意味論の枠組みを使ったモデル論です (2項関係ではなく3項関係を使ったりもしますが)。ということで、真理値表のシンプルなモデルで様相を適切に表すことはできず、可能世界の枠組みを使うという意味で一段"上"に行かないといけない、というのはある意味で正しいわけです。

以上のように、どのような推論を満たすかという一般的な観点から結合子や演算子を特徴づけるという考え方は、

philpapers.org

から学びました。とくに2章、3章ですね。この本は、様相論理くらいまでひととおり勉強した人が読むと、わりと「なるほど〜そういうことだったのか」と思うところが多いのではないでしょうか。論理学初学者だと旨味がわからないかも。いまアマゾン見たらKindle版も出てますね。

もうひとつ、正の様相には必然性と可能性の2つがあるのに、負の様相 (否定) は1つなのかと思った方、目のつけどころがすばらしいです。じつは2つあります。後期の最後にやる予定ですのでお楽しみに。

にわとりとタマゴ:様相と到達可能性関係

2019年5月20日のコメントペーパーより。レジュメは様相命題論理

コメント:到達可能性関係はどのように決まる?各世界の真理値が与えられても関係  R は決まらないのか?この「関係」とは何ぞ…?

回答:これまた難しい質問ですね。(おそらく) 初めて可能世界に触れた方の戸惑いがよくわかります。いや、こういう質問はありがたいです。

数学的には、様相論理のモデルは、可能世界の集合  W に対して到達可能性関係  R と各世界における付値  v を決めることで決まります。ここで、到達可能性関係と付値は独立に決められますので、その意味では、「各世界の真理値が与えられても R は決まらない」と言ってもよいかもしれません。

他方で、 \Box\diamondsuit を含む論理式の、ある世界における真理値は、その世界から  R で到達可能な世界における真理値を参照して決まりますから、ここでは「各世界の真理値が与えられても  R は決まらない?」という問いは、少しナンセンス気味になります。

以上は数学的な定義についての話なので、少しポイントを外しているかもしれません。以下のような話はどうでしょうか。要点を先に言うと、上の話では、

到達可能性関係が先に決まって、それによって \Box\diamondsuit 論理式の真理値が決まる

という順序でした。関係が先、様相論理式が後、という順序です。で、この概念的な順序はじっさいのところ適切だろうかという話です。

 

義務様相で考えましょう。 \Box A は「 A しなければならない」と読みます。その真理値は「 yx から見て道徳的に理想的な世界である」という到達可能性関係  xRy を使って、

 v(x,\Box A)=1 \iff xRy なるすべての y について  v(y,A)=1

と定義されます。この定義の仕方は「…は…から見て道徳的に理想的な世界である」という関係によって、「しなければならない」という様相を定義しているものと解釈することができます。先に述べたとおり、関係が先でそれによって様相が定義される、という順序です。

しかし、じっさいのところ、ある可能世界  y が別の世界 x から見て道徳的に理想的な世界である、とはどういうことでしょうか。そのような  y って、 x で「しなければならない」とされていることが実現されている世界のことではないでしょうか。それ以外に説明のしようがあるでしょうか。

言いたいのは、最初の定義では到達可能性関係によって様相を定義したのに、その元の関係とは何かを説明しようとすると、様相 (「しなければならない」) を持ち出さざるをえないように思える、ということです。循環が生じているように思えます。

 

時制論理で考えてみましょう。 yRx は「 y x より過去の時点である」と解釈します。ある時点  x で「 A であった」が真であるのは、 yRx であるようなある y で、つまりある過去の時点  y A が成り立つとき、と考えられます。ここでは、時点のあいだの過去-現在関係がまず定義され、それに基づいて過去時制の命題の真偽が決定されます。

しかし、この定義の順序は絶対的なものでしょうか。むしろ逆に、現在から見て過去の時点とは、現在において「 A であった」が真であるようなすべての  A が成り立っている時点のこと、と考えてはいけないのでしょうか。つまり、時点のあいだの関係は、時制命題の真偽を決定するものではなく、むしろ時制命題の真偽によって決定されるものと考えてはいけないのでしょうか。

 

可能性について考えてみましょう。この現実世界から見て可能な世界で  A が真だから、この世界で「 A は可能である」が真なのではなく、むしろ、この世界で「 A は可能である」が真とされているような  A が成り立っているから、その世界が可能世界なのだ、と考えてはいけないんでしょうか。

 

繰り返しになりますが、以上は、時制や義務を含む様相命題の真偽ないし意味と、到達可能性関係とのあいだの、概念的先行関係についての問題です。可能世界意味論の発案者の一人であるアーサー・プライアーは次のように言っています。

たしかに、成り立つ (to be the case) ということは、この現実世界で成り立つということである。しかしこの同値性は、成り立つということの意味の説明ではなく、むしろ「現実世界で」というフレーズの意味の説明なのである。ある可能世界で成り立つということは、それが成り立ちうるということ [によって説明されるべき] であり、想像世界 (imagined world) で成り立つということは、それが成立することを想像できるということ [によって説明されるべき] であり、より以前の世界 (former world) で成り立つということは、それが成り立っていたということ [によって説明されるべき] であり、そして、現実世界で成り立つということは、要するに、成り立つということ [によって説明されるべき] なのである。("Worlds, Times and Selves," p.244)*1

さいきんは、否定についてもこういう論争が持ち上がったりしてますが、まあその話はおいおい。

*1:Prior, A. (2003). Papers on Time and Tense: P. Hasle, P. Øhrstrøm, T. Braüner, and J. Copeland (eds.), Oxford University Press.

可能世界の同一性

2019年5月20日のコメントペーパーより。レジュメは様相命題論理

コメント:あるモデルのなかに、命題変項への真理値の割り当てがすべて等しくなるような世界が2つあることは可能でしょうか。つまり、すべての命題変項  p に対して

 v(w_1,p)=v(w_2,p)

となるような  w_1,w_2 があってもよいのでしょうか。 

回答:モデルの定義にはこれを禁止する条件はないので可能は可能です。で、知りたいのはおそらく「上のような  w_1,w_2実質的に同じ世界ではないのか」ということだと思います。気持ちはわかります。

ただし、命題変項への割り当てが一致するだけでは同じ世界とは言えないでしょうね。
たとえば、次のようなフレームを考えます。

f:id:takuro_logic:20190805225940p:plain

そして、このフレーム上の付値  v がすべての命題変項  p に対して v(x,p)=v(y,p) を満たすものとしましょう。 x y は命題変項の真理値については完全に一致した2つの世界ということになります。

しかしこのとき、 v(x,p)=v(y,p)=1 となる  p に対しては、 v(x,\diamondsuit p)=1 ですが、 v(y,\diamondsuit p)=0 です。他方、 v(x,p)=v(y,p)=0 となる  p に対しては、 v(x,\Box p)=0 ですが、 v(y,\Box p)=1 です。つまり、2つの世界のあいだには、様相命題の真偽にかんしてかなり食い違いがあり、同じ世界とは見なせないように思えます。


では、一致するのは命題変項だけでなくすべての論理式についてだ、としてみてはどうでしょうか。すなわち、すべての論理式  A について

 v(w_1,A)=v(w_2,A)

となる世界  w_1,w_2 はどうでしょうか。これらは実質的に同じものと見なすことができます。

ここで、あるモデル  \langle W,R,v \rangle外延的 (extensional) であるとは、任意の  w_1,w_2\in W について、

すべての論理式   A について  v(w_1,A)=v(w_2,A) ならば  w_1=w_2

を満たすモデルのことだとします。つまり、すべての論理式の真理値が一致している、上の  w_1, w_2 のような世界は同一になってしまっているモデルです。で、このような外延的なモデルだけを考えても、妥当な推論は変わりません。

どういうことかと言うと、推論が妥当であるとは「すべてのモデルで真理保存的であること」ですが、これを「すべての外延的モデルで真理保存的であること」と変えても、妥当な推論の集合は変わらないということです。妥当な推論は妥当なまま (これはじつは当たり前) であり、妥当でない推論も非妥当なまま (こちらが本質的) です。

これがなぜかを説明しはじめるとたいへんなのでここで止めておきますが*1 いずれにせよ、以上が意味しているのは、すべての論理式に対して真理値が一致する2つの世界は、妥当な推論とそうでない推論を区別するという論理学の目的に照らして考えるかぎり、同一視してもかまわない、ということですね。

これは言い換えると、可能世界の同一性は、そこで真になる命題の集合 (偽のほうはその補集合) によって決まる、ということですね。とすると、そこからもう一歩進んで、可能世界というのは要するに真なる命題の集合なのである、可能世界なるものがこの世界とは別に存在するのではなくて、それらは何らかの言語的な存在者にすぎない、と主張する立場もありそうですね。ま、わたしはそのあたりはあまり深入りはしたくないのでこのへんで。

*1:完全性定理の証明をやるとすぐわかると思います。

「コンピュータの理解を越える論理式」?

2019年5月13日のコメントペーパーより。レジュメは古典命題論理

コメント:コメントペーパーの回答で、論理式は計算できるということに驚きました。じっさいにソフトのようなもので論理式を計算する人はいるのでしょうか?また、いるならばコンピュータの理解を越える論理式がこれから出る可能性はあるのでしょうか? 

回答:ひとつめの問いについてはイエスで、ウェブ上にたくさんプログラムがあります。たとえば(ちょっとぐぐっただけですが) The Propositional Logic Calculator とか
Tree Proof Generator とか出てきますね。ふつうの論理学の授業では、前回の授業でお話した「タブロー (真理の木) 」の方法がよく使われるからか、それを自動生成するものが多い印象です。

ちなみに、以前放送大学のお仕事を手伝ったときに、みんなで

対話的タブローチェッカー「タブ朗」

というのを作りました。「タブ朗」は私の名前から取られています。これはコンピュータが自動で計算してくれるというよりも、コンピュータに間違いをチェックしてもらいながらタブローを自分で作るためのプログラムです。

さて、2つめの質問はきわめて重要で、授業でも話したいんですが、おそらく時間はないので書いてしまいましょう。

まず、「コンピュータの理解を越える」というのはなかなか難しい表現ですが、ここで問題になるのは計算可能性の概念だと思います。「計算する」とは、人間の勘や経験則に頼るのではなく、予め明確に決められた規則に従って、機械的な操作を繰り返し、有限ステップのうちに答えを出すことです。そして、ある問題に対してこのような仕方で答えをだすことのできるアルゴリズムが存在するとき、その問題は計算可能 (computable) であると言います *1

さらに、与えられた入力に対して、とくに「イエス」か「ノー」のどちらかを答えとして返す問題を決定問題 (decision problem) と呼びます。推論の妥当性の判定は、妥当であるか妥当でないかを判定するわけですから、まさに決定問題ですね。そして、ある決定問題が計算可能であるとき、すなわち、与えられたどんな入力に対しても、(正しく)イエスあるいはノーを答えとして返すことのできる、そのようなアルゴリズムが存在するとき、その問題は決定可能 (decidable)であると言います。

さて、というわけで、「コンピュータの理解を越える」論理式なり推論があるかどうかという問題は、推論の妥当性は決定可能かどうか、という問題と理解することができると思います。任意の推論、つまり前提と結論の組み合わせが与えられたときに、それが妥当であるかどうかを判定するアルゴリズムは存在するかどうか、です。

もう少し正確さを期すことにしますが、この講義の最初から言っているように、論理と言ってもたくさんあります。ある推論が妥当であるかどうかは、それをどの論理の妥当性で考えるかに依存します。また、論理の違いはしばしば推論を表現する言語のちがいでもありますから、そのことにも注意して、次のように定義しましょう。

定義:ある論理  L (の妥当性決定問題) が決定可能であるとは、 L の論理式によって構成された任意の推論について、それが論理  L において妥当であるかどうかを判定することのできる、ひとつのアルゴリズムが存在することである。 

この定義のもとでは、まず、古典命題論理は決定可能です。たとえばタブローによる妥当性判定方法がアルゴリズムを与えてくれます。上で紹介したように、そのアルゴリズムは現実のコンピュータに実装することもできます。

次に、これから見る様相論理は基本的に決定可能です。「基本的に」というのは、いくつもある様相論理のうち代表的な体系は決定可能だということです。シンプルなタブローの方法だと、計算が終わらなくなることもあるので、別の方法が必要ですが、ともあれ決定可能です。

そして、前期の後半で見る古典述語論理は決定不可能です。述語論理は、命題論理の \neg, \wedge,\vee, \supset に加えて「すべての」と「存在する」を表す記号を扱う論理です。決定不可能ということは、タブローの方法であろうが何であろうが、どのようなアルゴリズムを考えても、どれだけ高性能なコンピュータを使っても、ちゃんとした答えを与えることのできない推論が出てきてしまうということです。典型的には、計算プロセスが循環 (ループ) してしまったり、無限に展開したりしてしまいます。

決定不可能性の内実をより詳しく言うと、述語論理は半決定可能 (semi-decidable) ではあります。すなわち、入力された推論が妥当な推論のときには必ず「イエス」という答えを出すアルゴリズムは作ることができます (たとえばタブローがそうです)。ただし、妥当でない推論に対しては、そうはいきません。どのようなアルゴリズムも「ノー」と答えが出せない推論を抱えてしまいます。

すでに述べましたが、この決定不可能性は、どのようなアルゴリズムを考えても、どれだけ高性能なコンピュータを使っても、原理的に不可能という意味です。ここで考えている計算可能性というのは、1930年代にチューリングやチャーチらによって確立された概念で、現代のわたしたちが使っているコンピュータの理論的な基盤となっています。ということで、述語論理は以上に述べたような意味で「コンピュータの理解を越える」と言ってよいのではないでしょうか。

*1:ここでは「機械的な操作」とか「アルゴリズム」とかいう言葉を使ってざっくり説明していますが、数学における計算可能性理論では、これらの概念が厳密に定義されます。また、計算可能性概念がかかわる「問題」としては自然数上の関数だけを考えます。つまり、自然数が入力されたときに何らかの自然数を答えとして出力するという問題です。推論の妥当性判定などの操作は、以前に少し触れたように、まずはそれらを自然数上の関数として表現して、それから計算可能性を判断するという手順になります。

四句分別と分析アジア哲学

2019年5月13日のコメントペーパーより。レジュメは古典命題論理

コメント:中観派の思想に触れることがあったのですが、「真でも偽でもない」というようなことを述べていました。(西洋)哲学の文脈でもそのようなことは考えられたりしているのでしょうか。

 回答:そんなあなたにぴったりなのが、Priest, "The logic of the catuskoti"*1です。Catuskoti*2は、英語ではtetralemmaとかfour corners、日本語だと「四句分別」と呼ばれる、仏教を中心とするインド思想で用いられる論理的原理です。龍樹(ナーガールジュナ)が『中論』のなかで何度も用いていることで知られています。

それによれば、命題には「真」と「偽」だけでなく「真かつ偽」「真でも偽でもない」の4つの可能性があります。これがそもそも何を言っているかに解釈の余地はいくらでもあるわけですが、もし素直にとるとするならば、後二者は無矛盾律排中律に反するあからさまな矛盾です。ということで、西洋的観点からすると、仏教などの東洋思想はしばしばこの意味で不合理 (irrational) だとされます (これは、そこがむしろ魅力なのだという見方と裏表です)。

プリーストは上記論文をはじめとする膨大な著作群*3で、このような見方に真っ向から反対し、現代的な非古典論理を使えば、Catuskotiの論理が合理的に再構成できることを示しています。もちろん、龍樹が非古典論理のことを知る由もないですから、ある意味でこれは時代錯誤的な押しつけではあります。

などと言われつつも、現代論理学やもう少し広く分析哲学の立場から、仏教をはじめとするアジアの宗教思想を合理化しながら解釈しよう、という分析アジア哲学の潮流は、だいぶ強いものになってきているように思います。興味のある人は、次あたりの文献を見てみてはいかがでしょうか。

 

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*1:Priest (2010). "The logic of Catsukoti [PDF]," Comparative Philosophy, 1, 2.

*2:チャトゥスコティとみんな発音しているような

*3:代表的なのはPriest, G. (2002). Beyond the Limits of Thought: Oxford University Press でしょうか。