存在は2階の述語である
2019年6月24日のコメントペーパーより。レジュメは古典述語論理。
コメント: も、 と同じく一段階上な感じがしました。 自体が「すべての…について…である」という述語であるというか。
回答:鋭いですね。そのとおりです。説明しますと、たとえば、「…は人間である」は「…」に個体の名前を入れると文になるので、個体についての述語です。この述語は個体の性質や関係を表します。
で、「…は人間である」から文を作る方法にはもう一つあって、すなわち、「すべての について… …」と組み合わせて、
すべての について は人間である
とやる方法です(日本語としても意味的にも少しぎこちないですが)。ここで、「すべての について… …」は、「…」に (名前ではなく) 述語を入れると文になる表現なので、性質や関係についての述語、2階の述語です (対して「…は人間である」は1階の述語です)。
「存在は2階の述語である」というのは、フレーゲが見事に喝破したことで有名です(『算術の基礎』46, 53節など)。たとえば、
最大の自然数 (The maximum natural number) は存在しない
という文を考えます。「最大の自然数」は"the"がついていることから、何らかの個体を指示する名前のはずです。そしてそれゆえに、ここでの「存在しない」は1階の述語として使われています。
問題は、この文は最大の自然数は存在しないと主張しているので、「最大の自然数」は指示対象を欠いた名前であるはずだということです。では、この文はいったい何について何を主張しているのでしょうか。謎です。もし反対に、「最大の自然数」には何らかの指示対象があるのだと主張するなら、こんどは元の文が (意図に反して) 偽になってしまいます。存在が1階の述語だとすれば、存在しないものについて存在しないと語ることは不可能に見えます*1。
フレーゲはこの問題を、存在は2階の述語なのだと指摘することで解消してしまいます。すなわち、最大の自然数は存在しないと言いたいなら、まず
は他のどの自然数よりも大きな自然数である*2 [ 最大の自然数である]
という述語を考えて、この述語が当てはまる個体が存在しないと言えばよい、とするわけです。これは、最大の自然数という存在するようなしないような、そういう謎めいた対象について何かを言っているわけではなく、たんに「 は他のどの自然数よりも大きな自然数である」という述語が何にも当てはまらないと言っているだけですから、先ほどのような、文の内容をどう理解すればよいかという問題は見当たりません。ということで、存在は個体についての述語ではなく、(1階の述語が表現する) 性質についての述語だと理解するのがよい、というわけです。
断っておくと、フレーゲの元々の議論はじっさいには上のようなものではなく (上のような例を念頭に置いていたのは間違いないと思いますが)、個数の言明についての議論の文脈で出てきます。「存在する」とは「少なくとも1つ」ということですから、ある種の数の表現です。そしてフレーゲは「存在する」だけでなく、0個、1個、2個、3個等々の個数の表現はすべて、性質についての述語であると考え、このアイディアをベースにして(それにもう一段階ひねりを加えて)、自然数を論理的に再構成してしまいます。授業で話した解析学の厳密化は、実数とその上の関数の性質を論理的に再構成するというプロジェクトですが、これはそのプロジェクトの行き着く果てにほかなりません。フレーゲの『算術の基礎』はこのようなキレキレのアイディアの宝庫ですから、ぜひ読んでみてください。
様相演算子としての二重否定
きょうはいつもとちがうところから。いま、
を勉強会で読んでいる学生さんから質問を受けて、ちょっとおもしろかったので、書いてみます。質問 (のひとつ) は、Exercise 3.21についてのものでした。問題は
二重否定は正の様相演算子と見なすことができる。では、それは、正の様相のうち必然性タイプの様相か、それとも可能性タイプの様相か。
というものです (以下の話に合わせて少しだけ表現は変えています)。背景から説明しましょう。
以前のエントリ
で使った定義に依拠します。まず、正の様相とは、帰結関係にかんして単調な1項演算子のことでした:
定義 (必然性・可能性)
次の条件を満たす1項結合子 を 正の様相 (positive modality)と呼ぶ。
() ならば
が正の様相であり、さらに次を満たすとき、 を必然性と呼ぶ。
()
が正の様相であり、さらに次を満たすなら、 を可能性と呼ぶ。
()
次に、否定というのは、帰結関係を反転させる演算子のことでした:
定義 (否定)
次の性質を満たす1項結合子 を否定と呼ぶ。
() ならば
すると、 を2回否定で反転させれば、 となるので、 は上の定義にのっとれば正の様相であるということになります。上の問題は、これを踏まえて、では二重否定は ( の仲がよい) 必然性なのか、それとも ( と仲のよい) 可能性なのか、を聞いています。すなわち、
は成り立つのか、あるいは、
は成り立つのか、両方とも成り立つのか、それともどちらも成り立たないのか、ということですね。上の定義 () を満たすというだけでは、これらは成り立ちそうにありません。他方、二重否定の導入や除去、あるいはド・モルガンの法則が自由に使える古典論理ならどちらも成り立ちますが、古典論理では ですから、現実性 と可能性 と必然性 がぜんぶ一つに潰れてしまいますね (同じようなことを上のエントリでも見ました)。ということで、もう少し細かく分析したいところです。
そのために、否定を2種類考えます。すなわち、
()
()
を満たす です。これらが上の否定の定義を満たすことはすぐにわかると思います。すると次のことがわかります。
命題
もちろん、上記のうち「〇〇ではない」の部分は「上の定義以外の他の性質を仮定しないかぎり」という条件つきです。
が必然性演算子であることを見ましょう。まず、正の様相の条件
を満たすことは明らかです。次に、() を満たすことは以下のように示すことができます。
- ( の定義)
- (1, )
- (2, )
- (以上と同様に)
- (3, 4, の定義)
- (5, )
- (6, )
が可能性演算子であることも、これのちょうど鏡像のような形で示すことができます。
次に、「〇〇ではない」の項目については、モデル論を使うのが楽でしょう。これらの否定は、可能世界意味論における2項の到達可能性関係を使ってモデルすることができます。すなわち、
すべての なる について
ある なる について
です。 は「すべての到達可能世界で が偽」なので不可能性、 は「偽になることもありうる」なので非必然性 (unnecessity) と呼ばれます。
モデルの構造についてはもう少し細かい条件をつけないといけないのですが、ともあれ基本的には、上の真理条件を使って、 が可能性演算子ではないとかを示す反例モデルを構成することができます。また、上の真理条件を見ると、 が必然性であること、 が可能性であることもすぐに納得がいくのではないかと思います。
以上で、上の命題は証明できたとして、この2種類の否定についてもう少し説明しておきます。先に少し触れたように、これらは鏡像のようなもので、以下のような帰結関係が成り立ったり成り立たなかったりします:
や が必然性や可能性ではあるけれども、その両方ではないというのは、これらの性質がうまく組み合わさっているから、と言えるでしょう*1。古典論理の否定 (関連性論理の否定もですね) は、ここの と の両方の性質を併せもってしまっているので、二重否定 は必然性でも可能性でもあるのだけれど、強すぎて潰れてしまう、ということですね。
ちなみに、直観主義論理の二重否定は、必然性だけれども可能性ではありません*2。直観主義の否定は、上の2種類の否定の性質を併せもっているわけではない (どちらかというと 系列の否定で、 とは相容れない感じです) のですが、構造規則のおかげでいろいろとやれちゃうので、必然性になってしまうんですね。
また、直観主義論理では
が成り立つので「 が真ならばそれは必然的に真である」だということになります。これは少しおかしいように感じるのですが、モデルにおける遺伝性やS4への埋め込みを考えると「まあそうか」とも思えますね。
この「直観主義論理の二重否定=必然性」については、Kosta Došenによる仕事があります。
K. Došen, Intuitionistic double negation as a necessity operator.
彼は、上でみた到達可能性で定義される「様相演算子としての否定」*3を始め、このあたりの領域で非常に重要な仕事をしています。
というわけで、わりと「だからなんなの」的な話でしたが、掘れば何かがでてくるんじゃないかなあとも思います。
必然性の論理は歴史的必然か
2019年6月24日のコメントペーパーより。レジュメは古典述語論理。
コメント:授業では命題論理→様相論理→述語論理と進みましたが、歴史的な成立順序は、命題論理→述語論理→様相論理 (→様相述語論理) で合っていますか?もしそうなら、様相論理が述語論理のあとに成立したのは必然的だったのでしょうか?
回答:様相論理がいちばん遅いのは合っているんですが、命題論理と述語論理の順番が逆でしょうね。ちょっと本筋からずれますが、まずこの話をしましょう。
(以下は、わりとざっくりと、思い切ったことを言っているので、識者のご批判を乞いたいところではあります。)
ブールなどの論理代数派を無視して、フレーゲが現代論理学の始まりだとすると、その「始まり」である『概念記法』(1879) においてフレーゲが提示したのは高階述語論理でした。いま授業でやっているのは、「すべての人について」とか「ある猫が存在して」のように、個体ないし対象の上の量化(のみ)を扱う論理で、これを現代では1階述語論理と呼びます。対して、「プラトンは哲学者がもつべきすべての性質をもっていた」などに出てくる「すべて」は、個体ではなく、個体がもつ性質を量化しています*1。このような量化を2階量化と呼び、1階の量化に加えてこの2階量化を扱う論理を2階述語論理と呼びます。こうなると、「性質がもつ性質」を量化する3階量化、「性質の性質の性質」を量化する4階量化…と (直観的な理解はともかく) 数学的には青天井です*2。ということで、任意の 階量化を扱える論理を高階論理と呼ぶのですが、フレーゲの体系はまさにこれでした。
いまのわれわれからすると、命題論理のようなシンプルなところから徐々に複雑な体系が作られてきたように想像されるところですが、じっさいには逆で、最初からいきなり「フルアーマー」の体系が登場したわけです。そしてその後、高階論理の意味ある部分として、1階述語論理が、また命題論理が切り出された、という風に見ることができるのではないかと思います*3。ここでの「意味ある」とは、1階述語論理とは高階論理のなかで意味論的な完全性定理が成り立つ部分 (2階では成り立たない) であり、命題論理とは、真理値表によるシンプルなモデル論が与えられ、決定可能性 (妥当性の機械的判定可能性) が明らかに成り立つ部分であり、というあたりです。
前置きが長くなりました。さて、古典的な命題・述語論理と様相論理の関係ですが、必然的かどうかというのは難しいところです。現実の歴史的経緯は次のとおりです。
フレーゲのあと、現代的な論理学の体系はラッセルとホワイトヘッドの『プリンキピア・マテマティカ』(1910-1913)でひとまず完成したと見なされています。様相論理は、この完成した体系に対するある種の異議申し立てとして始まります。問題は、『プリンキピア・マテマティカ』の含意の扱いです。そこでは含意は、この授業でやったように、「前件が偽か、または後件が真のとき真」として定義されます。C.I.ルイスは、この含意は、わたしたちの理解する含意の概念に反しているとして、「厳密含意 (strict implication)」と呼ばれる新しい含意をもつ体系を提案します。文献としては、
などですね。
この厳密含意は、わたしたちの表記法で書けば 、つまり必然的な含意です。こうして、様相的な概念を表現する記号をもつ論理体系が現れました*4。その後、ルイスの体系では含意と密着して考えられていた様相が独立して、それ自体として研究されるようになります*5。そして、1930年代頃には、いまも研究されている代表的な様相論理の体系が出揃ってきます。
ただし、これらの体系はすべて、公理と推論規則によって証明論的に定義されていました。可能世界意味論は、1940年代のカルナップによる先駆的な仕事と、1950年代後半からのクリプキらの登場を待たないといけません (それ以前のタルスキ、マッキンゼーらの代数的な業績も無視してはいけませんが)*6。
さて、いまの話の流れで注目しないといけないのは、授業でも何度も強調しているように、可能世界意味論は、可能世界の上の量化によって様相を定義するということです。そして、量化は述語論理によって形式的に表現できますから、次のような翻訳を考えることができます。すなわち、可能世界意味論における
( が可能世界 において真である)
は、 なるすべての について ということですから、
と、述語論理の論理式で記述できます ( が「 で が真である」に対応します)。可能世界意味論の初期から、このような様相論理と述語論理の対応は重視されてきました。
以上は、様相論理がある意味で述語論理へと翻訳され、還元されうることを意味します。ではこれは、様相論理はそれ自体としての重要性はもたず、還元先の述語論理だけあればよいということを意味するでしょうか。必ずしもそうではありません。
以前も書きましたが、(古典) 命題論理は決定可能 (推論の妥当性が機械的に判定可能) です。対して、述語論理は決定不能です。どのようなプログラムを作っても、妥当性を有限ステップで判定できない推論が出てきてしまいます。すると、命題論理は述語論理の部分ですから、命題論理を拡張していくどこかの段階で決定不能になってしまうということになります。逆に、述語論理を制限していくと、どこかで決定可能になるはずです。
様相論理はまさにその「制限」の一例を与えてくれます。代表的な様相論理の体系は決定可能であり、それゆえ、様相論理と上の翻訳を介して対応する述語論理の部分は決定可能になるからです。これについては例えば、
とくに第7章を見てもらうとよいと思います。
これは、フレーゲの高階論理からその「意味ある」部分として、1階述語論理や命題論理が切り出されてきたのと類比的に考えることができそうですね。高階論理の部分である1階述語論理のさらにその一部分を、決定可能性という観点から意味あるものとして切り出したのが、様相論理 (ないし翻訳を介したその対応部分) である、という見方です。
C.I.ルイスの元々の問題意識は含意でしたから、述語論理 (量化子) がなくても、命題論理さえあれば、様相論理は生まれたかもしれません。その意味で、述語論理のあとに様相論理がくるのは必然的ではありません。他方で、述語論理が存在していなければ、上に述べたような、様相論理のもつ「意味」が見出されることはなかったでしょう。その意味では、述語論理は様相論理の発展にとって必要であったとは言えるのではないでしょうか。
*1:「…の上の量化」とか「…を量化する」とか表現には馴染みがないと思いますが、要するに、「すべて」と言っているときの「すべて」の範囲に入るものの種類は何かという話です。
*2:性質とは要するに集合のことである、という見方に馴染んでいる人なら、個体の上の量化、個体の集合の上の量化、集合の集合の上の量化…と考えてもらえればよいです。
*3:このあたりを説明している文献があったと思いますが、いま思い出せません。すみません。
*4:ルイスよりもさらに前、MacCollという人が、1880年代に様相演算子をもつ論理を考案していたみたいですが、残念ながら広く知られずに終わったようです。
*5:このあたりの経緯は、後期にもう少し詳しくやります。
*6:以上の様相論理の発展史については
を参照しました。
ある論理がタブローで「できる」とは
2019年6月10日のコメントペーパーより。レジュメは様相命題論理。
コメント:[古典] 命題論理と述語論理はタブローで計算できることを知っているのですが、様相命題論理や様相述語論理はタブローでできますか?
回答:できます。いつものように
を見てもらえればよいかと思います。
ちなみに細かいことですが「計算できる」あるいは「できる」というのは微妙な表現ですね。以前に
で書いたように、古典述語論理は「決定不可能 (妥当性の判定問題は計算不能)」なので、どのような推論に対してもタブローによる手続きで有限ステップ内で答えが出せるわけではありません (様相述語論理は古典述語論理を部分として含むので、当然決定不可能です)。
それでも「古典述語論理のタブロー」というものは存在していて、その意味で、タブローで「できる」と言うことはできます。では、決定可能性が成り立たない場合に、それにもかかわらず、「〇〇論理のタブロー」が存在するとは、あるいは「〇〇論理はタブローでできる」とはどういうことかというと、次の意味での完全性が成り立つことであると言えるでしょう。すなわち、任意の推論 について、
が論理 において妥当である に対するタブローが は妥当であると判定する。
決定可能性とこの完全性、ちがいはどこだと思いますか?
可能世界のフレームと状態遷移構造
2019年5月27日のコメントペーパーより。レジュメは様相命題論理。
コメント:非妥当性の証明で出来上がる反例モデルのイラストが有限状態オートマトンのようだった。何か関係しているのだろうか。
回答:(あやふやな記憶だけで書きますが) 有限状態オートマトンは、
のような状態遷移図で表せる構造ですね。状態 () の集合とそのあいだの遷移 (矢印) によって構成され、状態の中に特別な状態として、開始状態 (ここでは) と受理状態()が指定されることがあります。
このような状態遷移図は、コンピュータ、より一般には何らかのシステムが、入力 (ここでは の2種類だけ)に応じて、その内部状態を変化させていく様子を表しているものと考えることができます (上の図は、
という形の入力に対して (そしてそのような入力に対してのみ)、コンピュータが
というような状態遷移を経て計算が終わる、というプログラムを表現しています)。
様相論理のフレームと何か関係があるかというともちろんあって、わたしたちがいまやっている フレームは、このような状態遷移構造のもっともシンプルな形ですね。上のオートマトンは、開始状態と受理状態があったり、遷移にも と の2種類があったりと、 フレームよりもリッチな構造ですが、逆に言えば、 フレームにいくつかオプションを乗せただけの派生形とも考えられるわけです。
ポイントは、様相論理には論理式があるということです。それにより、次のようなシステム検査が可能になります。
- システムに満たしてほしい性質 (エラーが起こらないとか) を論理式で表現する。
( と だけでは表現力が弱いので、さまざまな演算子が導入されます。) - 他方で、いま作っているシステムのふるまいを、状態遷移構造 (フレーム) として表現する。
- 1の論理式が、2において (とくにその開始状態において) 真であるかどうか、つまり満たしてほしい性質を満たしているかをチェックする。(このチェックも自動化できるように工夫する。)
こうすると、(たとえば) システムがエラーを起こさないということが数学的に証明されるので、システムを作る側としてはかなりありがたいらしいです。様相論理がこんな風に使えるのはわりとびっくりではないでしょうか。
以上については、いい講義ノートを見つけたので、興味ある人はぜひ見てみてください。
蓮尾一郎「モデル検査入門」:
2つの様相演算子、一緒に暮らしていくならどっち
2019年5月27日のコメントペーパーより。レジュメは様相命題論理。
コメント: と は双対なので、どちらか一方があればもう一方を表せるということですが、使えるのが一生どちらかだけと言われたら、どちらかを選ぶ理由はありますか?
回答:愛着のようなものを聞かれているみたいでおもしろいですね。とはいえここでは、「 と 、どちらが概念的に根本的か?」という質問として理解して答えます。
確認しておくと、古典論理上の様相論理では、任意の論理式 について、
- は と同値なので、必然性は「 の否定が不可能であること」として定義でき、反対に、
- は と同値なので、可能性は「必ずしも が否定されるわけではないこと」として定義できる、
のでした。そこで、一方を他方で定義するとして、どちらを定義項とし、どちらを被定義項と見なすか、ということですね。
「自分は古典論理の否定はろくでもないものだと思っているので、双対関係も認めない、したがって一方を他方で定義するとかも考えない」という逃げ方はひとつありますね。ま、これは逃げですね。
少し前のエントリ
でも述べたように、私の考えでは、様相演算子を含む論理結合子は、推論の中に含まれる論理的な関係を命題として表現することを可能にする記号です。上のエントリでは含意と連言について書きました。
では、必然性と可能性についてはどうでしょうか。こちらのエントリ
で、様相演算子は、推論の中に含まれる (含意だけによっては完全に明示化できない) 様相へのコミットメントを明示化すると考えるとよいのではないか、と書きました。
そこで話をしたのは必然性だけでした。要するに、 は推論の妥当性、すなわち「前提が真ならば結論も必ず真」に含まれる「必ず」を明示化するのだということです。
では、 はどこから来ているのかというと、必然性と対比させるならば、推論の非妥当性、すなわち「 は真だが は偽であるような場合がありうる」の「ありうる」を明示化する表現と考えるのが自然でしょう。
かなり乱暴に話ししていますが、論理結合子としての様相演算子の起源は、推論の妥当性・非妥当性の概念にあると考えることができるのではないか、という提案です。
ここから、必然性と可能性のちがいの話です。上で述べたことからわかるように、必然性は推論の妥当性 (必然的な真理保存)にかかわります。可能性は推論の非妥当性 (反例の存在) にかかわります。したがって、必然性と可能性のどちらを根本的と見なすかという問題は、推論の妥当性と非妥当性のどちらを根本的と見なすかという問題に帰着します。(もちろん、妥当性の否定が非妥当性であり、非妥当性の否定が妥当性ですから、両者は相互に定義可能であり、どっちでもよいとも言えるのですが、それは必然性と可能性の双対性の時点でも同じことです。)
人間はいろいろなことを信じ、そしてそれを主張して人に伝えますが、そういった信念や主張はバラバラになされるわけでなく、他の信念や主張と関係づけられます。そのような関係づけのうち「 なんだから だ」として推論を行ったりその正しさを受け入れたりする実践と、「 だからといって とはかぎらない」として推論を批判しようとする実践と、どちらがわれわれにとって根本的でしょうか。
これは、人間の実態としてどうなのかという経験的な問題としても、どちらを根本的と見なせば、人間の言語活動の全体をうまく説明できるかという理論上の問題としても考えることができるでしょう。わたしはいまのところ、後者の問題意識のもとで、必然性のほうが根本的でないかと考えています。なぜかを説明すると長くなるのでここでやめます。
"ロマン派"論理?"印象派”論理?
2019年5月20日のコメントペーパーより。レジュメは様相命題論理。
コメント:"古典"論理と言いますが、いつの時代に体系化された分野なのでしょうか。芸術のように、"ロマン派"論理や"印象派"論理といったものがあるものなのでしょうか。
回答:意外にもというか、よくあることというか、古典論理自体は比較的新しい体系です。具体的には、G.フレーゲが1879年の『概念記法』において提示し、その後、ラッセルとホワイトヘッドの『プリンキピア・マテマティカ』(1910-1913)において完成を見た体系を、いまでは「古典論理」と呼んでいます。たかだか100年ほどの歴史です。
フレーゲ=ラッセル以前、アリストテレスから始まって、ストア派や中世の論理学、ライプニッツやカント、さらにはヘーゲルの「論理学」、このあたりは「古典」ではなく「伝統的 (traditional) 論理学」と呼ばれます。フレーゲの意識としては、自分がやっているのはもちろん"古典"ではなく、むしろ伝統的論理学に対する"革新的"論理学だったでしょうね。
「古典論理」という言葉自体は、フレーゲもラッセルも使っておらず、使われ始めたのはどうも1920年代のようです(村上祐子さんのスライド参照)。自分ではちゃんと確認できていないので憶測ですが、フレーゲ=ラッセルの論理がスタンダードとしての地位を確立し、同時に、それに収まらないオルタナティブな論理(とくに直観主義論理)の可能性が見えてきたのがその頃なのではないかと思います。そして、20世紀後半には「非古典論理」の著しい発展があったことはご承知のとおりです。
さて、古典論理と区別される"ロマン派"やら"印象派"やらがあるのかという話ですが、もちろん、様相論理・直観主義論理・線形論理・関連性論理などなど、いろいろな論理が古典論理とある意味で競い合っているわけですが、芸術と類比的に考えるなら、この論理のちがいはじつのところ、論理学者が生み出す「作品」、つまり論文や本のスタイルにはそれほど影響は与えないのではないかと思います。スタイルに影響を与えるのはむしろ、各々の研究者がどのような目的やアプローチで論理学をやっているかのちがいではないかと思います。いくつか例を挙げるなら、
- 数学の理論 (算術や集合論など) の分析として
- 論理自体の数学的興味深さ、美しさを求めて
- 計算機科学の一部として
- 形式的に扱える推論の範囲拡大を目指して (様相・時間etc.)
- 哲学として
といった目的・アプローチがあります。たとえ同じ古典論理を扱っていたとしても、こうした目的やアプローチが異なれば、論文の中身はまったく異なるものになります。「〇〇派」というのを考えるとすれば、このような分類に従うことになるのではないでしょうか。