論理学FAQのブログ

授業でもらったコメントに対して書いたリプライを、ブログ形式に編集しました。

論理的実在論、にたどりつけなかった話

 前エントリで少し示唆した「論理学の哲学」についての話です。

takuro-logic.hatenablog.com

学生さんに「論理的実在論」(論理の実在論だったか、論理にかんする実在論だったか、言葉はあれですが) について教えてください、と言われていたので、少し勉強しました。ベースとして読んだのはTahkoさんの

link.springer.com

です。さいきんはオープンアクセスが多くていいですね。ただ、残念ながらあまりおもしろくはなかったので、どうおもしろくなかったのか考えてみます。

まず、論理的実在論とは何か。幾人かの論者に依拠しつつ、Tahkoは次のようにまとめます。論理的実在論とは、次の2つのテーゼにコミットする立場です:

(LF) 論理的事実 (logical fact、ないし論理的構造) なるものが存在する。すなわち、論理についての主張の真理値にかんする事実 (fact of matter) というものが存在する。

(IND) 論理的事実は、私たちの認知や言語の成り立ちや実践からは独立である。それらは、心からも言語からも独立 (mind- and language-independent) という意味で客観的である。

たとえば、排中律が論理的真理であるのは、それを(論理的に)真にする事実が、私たちの心や言語のなかにではなく、客観的な世界の側にあるから、という考え方のようです。そして、その場合の「事実」というのはだいたい、モデル論的な構造のことを念頭においておけばよさそうです。

わかるようなわからないような特徴づけなんですが、考察の出発点としても、やっぱりナイーブすぎるように思います。とくに、Tahkoが重点をおいている(IND)です。認知や言語から独立の客観的事実、という考え方です。

たとえば、論理学の基本的な定理である完全性定理は「任意の推論に対して、その妥当性を示す証明か、その非妥当性を示す反例モデルのいずれかが存在する」という定理です。「証明」はもちろん言語的な構成物です。他方、ここでの「反例モデル」はしばしば、論理式の集合からなる「カノニカルモデル」として与えられます。つまり、こちらも言語的な構成物です。完全性定理は、言語的な構成物を大々的に用いて証明される定理です。

比喩的に言うと、ここには、言語それ自体が、自身の論理的正しさを支えうるような「客観的事実」を構成しているという驚きがあります (わりとみんなに共有されている驚きだと思うんですが、どうでしょう)。論理にかかわる実在論を論じるなら、こういう驚きが出発点になると思うんですが、残念ながら、(IND)にはそういう驚きのカケラも見いだせないんですよね。

これは、言語独立なわけがないので(IND)は間違っている、と言っているわけではないです。「そもそもこういう考えてないのかしら?せっかくオイシイところなのに」と言いたくなるということです。

言い換えると、論理に特有の事柄をあまり考えずに、「実在論テンプレート」をそのまま当てはめているだけのように見えるのです。

  • 数学的事実は、私たちの認知や言語の成り立ちや実践からは独立である。
  • 物理的事実は、私たちの認知や言語の成り立ちや実践からは独立である。
  • 社会的事実は、私たちの認知や言語の成り立ちや実践からは独立である。
  • ・・・
  • 〇〇的事実は、私たちの認知や言語の成り立ちや実践からは独立である。

というテンプレートを、とりあえず論理に当てはめてみて、さてどうなるか見てみよう、という態度に見えるわけです。これでは、ちょっと動機づけが薄いように思います。

もう少しいやらしい話をすると、論理的実在論の動機づけについて、Tahkoは次のように言います。

なぜ論理的実在論に興味をもたねばならないのか?ひとつ明確な理由は、それが論理に対する興味ある基礎づけ(foundation)あるいは根拠づけ(grounding)を与えるだろうというものである。

えっいまどき基礎づけ?とか思うわけですが、そこに「あるいはgrounding」と付け加えられているので、わたしとしては、前エントリで数学の哲学について述べた「応用問題」の構造を見てとってしまいます。つまり、分析形而上学のホットトピックであるgroundingの概念を論理に応用するとどうなるのか、という話であって、ほらやっぱり、論理そのものにそんなに興味ないんじゃない?と。

もちろん、「テンプレート」にしても「応用問題」にしても、 理論の一般的妥当性を測り、一定の規格のもとでの可能な見解のカタログを作る、ということですから、意味のあるアプローチではあるとは思います。でも、まあ、わたしとしては、論理学にはこんなにいろいろおもしろいことがあるのに、それをほっといてなんでそんな空中戦やってんの…というのが正直な感想です。

君ら、ほんまに興味あるんか?

以前、科学基礎論学会でイアン・ハッキングの数学の哲学について発表をしました(スライドはこちら)。ちょうど来日滞在中だったLeon Horsten先生と (それにわれらが伊藤遼さんと) 一緒にパネルをさせてもらったのが、とてもよい思い出です。

発表の内容は「なんでハッキングは分析的な数学の哲学がきらいなのか」。で、おもいっきりざっくり言えば、ハッキングが言いたいのは「君ら、じつは数学にはそんな興味ないんやろ?」ということです。さりげなく宣伝ですが、

www.morikita.co.jp

この本での議論に基づいています。

もう少し詳しく言うとこういうことです*1。ハッキングの見立てによれば、20世紀後半以降の分析哲学の伝統における数学の哲学の議論のやり方は、概して、そのときどきの流行の哲学理論を取り上げて、それが数学にいかにして適用できるか(あるいはできないか)を論じる、というものでした。彼の念頭にあるのは、いわゆる「ベナセラフのジレンマ」に登場する因果的な知識論や表示的意味論といった哲学理論です。

これらは、必ずしも数学にかんする哲学的な考察からではなく、むしろ別のところで生まれた理論です。数学はそこでは、それらの理論の一般的な妥当性を測るための試金石として用いられているにすぎません。ハッキングとしては「君ら、じつは数学にはそんな興味ないんやろ?」と言いたくなるわけです。ほんとに興味があるのはそっちの理論の方でしょ、と。

もちろん、このような分析的な数学の哲学の営みからも多くを学べるということは、ハッキングも認めています。でも、彼にしてみれば、それは付随的なものにすぎません。プラトンからウィトゲンシュタインに至る哲学者たちの数学への態度を振り返ってみれば、数学というのはそのような「応用問題」の材料なんかではなかった、むしろ数学それ自体がシリアスな哲学的問題の源泉だったじゃないか、というのが、ハッキングの言いたいことでした。

 

で、なんでこういうことを思い出しているかというと、いまちょうど論理学の哲学の論文を読んでいて、まさに同じことを感じたからです。「君ら、じつは論理学にはそんな興味ないんやろ?」です。まだその論文は読み終わっていないので、もう少し検討しますが、この印象が正しければまた報告します。

*1:いちおうお断りしておくと、かなり要約・意訳・咀嚼が入っています。

C.I.ルイスの厳密含意 (3)

ずいぶん間が空きましたが、しれっと再開します。続くかどうかは微妙。ともあれ、厳密含意の話が途中で終わっていたので、それをしめくくりたいと思います。

ここまで2つの記事で、C.I.ルイスの厳密含意がどのような問題意識とどのような着想のもとで生み出されたのかを見ました。

takuro-logic.hatenablog.com

takuro-logic.hatenablog.com

ここでは、厳密含意の何がダメだったのかを考えます。 「え、厳密含意ダメなの?」と思われるかもしれませんが、厳密含意のパラドクスというのが生じてしまいます。

 \Box B\models A\prec B  \neg \diamondsuit A\models A\prec B

これらが(少なくともルイスが意図していた体系では)成り立ってしまいます。\prec は厳密含意を表します*1

前回見たように、厳密含意  A\prec B は必然的な実質含意です。

 A\prec B= \Box (A\supset B) =\Box (\neg A\vee B)

すると、いま風に言うなら*2\Box B が真なら、すべての可能世界で  B が真ということですから、もちろん  \neg A\vee B もすべての可能世界で真です。つまり \Box (\neg A\vee B) が真ですね。 \neg \diamondsuit A のほうも同様です。というわけで、上の2つの推論は妥当です。

そして、これらはそれぞれ

  • 必然的に真な命題 (\Box B) は、任意の命題から(厳密)含意される
  • 必然的に偽な命題 (\neg \diamondsuit A) は、任意の命題を(厳密)含意する

ということですね。ここでの AB はまったく関係のない命題でもかまいません。B に「ソムタムおいしい」(必然的真理)とか、そして A には「2+2=5」とか入れてみてください。これは、以前に見た実質含意のパラドクス

 B\models A\supset B  \neg A\models A\supset B

とほとんど同じ形、同じ状況です。以前はたんなる「真な命題」だったのが「必然的に真な命題」に、「偽な命題」が「必然的に偽な命題」に変わっただけで、まったく関係のない命題のあいだに含意関係が成り立ってしまう、という事態は同じです。

じつはルイスは「厳密含意にかんしてはこれでいいんだ!」と力説しており*3、その議論を検討する必要はあるかもしれませんが、やはりどうやっても無理があるように思います。というわけで、厳密含意のパラドクスは「実質含意に代わる適切な含意を見出す」というプロジェクトにとって致命的であったという結論にして、次に進みましょう。検討したいのは、厳密含意の何がダメだったのか、です。

こういうことではないかと思います。ルイスは、含意は前件と後件の必然的結合に存すると考えて必然性概念を導入しました。これはいいんですが、問題は結合のほうに十分気を配れていなかったことではないか。ひとつの命題を単独で考えることと、ふたつ(以上)の命題を、連言でも選言でも含意でも何でもいいんですが、とにかく結びつけて考えることとは何がちがうのか、彼はあまり気にしていないように見えるのです。これが、厳密含意のダメだったところではないでしょうか。

「とはいえ結合ってなによ」と思われるかもしれませんが、それほど難しいことではないでしょう。B という命題が成り立つかどうかを B 単独で考えているときと、A という前提のもとで B が成り立つかどうかを考えているときでは、ちがうことが起こっているだろうということです。もう少し言えば、A を考慮に入れることで、わたしたちは、B 単独で考えていたときとは文字通り異なる前提のもとで、あるいは異なる視点、異なる文脈、異なる可能性のもとで考えている、ということです。

このように考えれば、厳密含意のパラドクス はブロックできる見込みが出てきます。B が必然的に成り立つとしても、それは「いまこの視点のもとで考えれば」の話です。A という前提を置くことで、私たちは別の視点に移動します。そしてその新しい視点のもとでは、B が(必然的に)成り立つかどうかは、以前とはまた別の話です。つまり、A という前提のもとで必ずしも B が成り立つとはかぎりません。言い換えれば、B が必然的に成り立つとしても、"A ならば B"が成り立つとはかぎりません。

私見では、(厳密含意のある意味で正統な後継者である) 関連性論理の3項関係意味論のベースにあるのが、この「複数の命題を結びつけて考えると視点が移動する」という考え方です。歴史的にはそう単純な話ではありませんが、そのような合理的再構成が可能ではないかと思っています。つまり、厳密含意に欠けていた「命題同士の結合」についての洞察を補ってやることで得られたのが、関連性論理の含意 (relevant implication) だということです。

3項関係についてもそのうち書きたいですね。ともあれきょうはこの辺で。

*1:本当はもう少しカーリーで、釣り針に似た形の結合子なのですが、ここでは表示できないので、それなりに似ている\precで代用します。

*2:ルイスの頃にはまだ可能世界意味論はありませんので。

*3:A Survey of Symbolic Logic, p.336 あたりです。

C.I.ルイスの厳密含意 (2)

続きです。前回はこちら。

takuro-logic.hatenablog.com

かんたんに復習すると、「実質含意のパラドクスを解決するため、C.I.ルイスは必然的な含意としての厳密含意を導入した」という教科書的なお話に対して、ではなんでルイスは様相 (必然性) を導入すると実質含意のパラドクスが解決すると思ったのだろうか、という疑問を、彼の1912年の論文

academic.oup.com

を読んで考えよう、というものです。ただし、以下のまとめは、ルイスの論文をかなり大幅に再構成してますので、その点ご容赦を。

 

さて、議論を始めます。実質含意は

  A\supset B = \neg A\vee B (「A ならば B= A が偽または  B が真」)

を満たす、あるいはこのように定義される含意です。 「ならば」が「または」を使って表される (ないし定義される) というのは一見おかしなように思われますが、ルイスはこのことには異論は唱えません。

じっさい、「または (or)」には、「トリック・オア・トリート」に典型的に見られるような、「 Aさもなくば B」「 A でないならば B」という含意的な意味合いが含まれています。このような意味合いを含んだ適切な選言を使えば、パラドクスに陥ることなく、うまく含意が定義できるかもしれません。これは裏を返せば、実質含意の定義に使われる選言は適切なものではなかったということですが、では、どこが問題なんでしょうか。

実質含意のパラドクスとは、

  \neg A\models A\supset B   B\models A\supset B

という、直観的には正しいとは思えない推論が古典論理では妥当になってしまう、という問題でした。これら2つの推論を、選言  \vee を使って書き直すと、

  \neg A\models \neg A\vee B   B\models \neg A\vee B

となります。これは、いわゆる選言導入則

(ED)  A\models A\vee B   B\models A\vee B

 の一例にほかなりません。ルイスは (ED) を満たすような選言を外延的選言 (extensional disjunction) と呼びます。 (ED) は、 A あるいは  B の少なくとも一方が真であれば  A\vee B も真であるという、しごく当たり前に思える性質ですが、上で見たとおり、外延的選言を使って定義された含意はパラドクスに陥ることになります。というわけで、これがいわば病気の原因です。

 

とはいえ、(ED) を満たさないような選言なんてあるのかしらと思われるかもしれません。それが、わりとあるんですね。たとえば、突然iPhoneの電波が繋がらなくなったとき、わたしが慌てて

(*)「電話代払ってなくて止められたか、このiPhone壊れたかのどっちかやわ」

と言ったとしましょう。冷静な人なら「そうとは限らないでしょう」と言うのではないでしょうか。まちがって機内モードにしてたのに気づいていないだけかもしれないし、ケータイ会社の電波全体に障害が出ているのかもしれません。他の可能性もあるだろうというわけです。

ポイントは、上のわたしの発話(*)は、たとえ選言肢のどちらか (止められたor故障) が現実に真であったとしても、真とは見なされないだろう、ということです。なぜか。それは、(*)は現実ではなく可能性についての話だからです。すなわち、現実にどちらが真なのかとは関係なく「ともあれこれら2つ以外に可能性はない」という主張として理解されるからです。じっさい、上の仮想問答でわかるとおり、(*)は、他の可能性が指摘されることによって棄却されてしまいます。

さて、このような見立てが正しいとすれば、(*)は、現実に  A あるいは  B が真であっても真にならないような「 A または  B」です。つまり、私たちが求めている、(ED)を満たさない選言の実例にほかなりません。ルイスは、このように(ED)を満たさないような選言を内包的選言 (intensional disjunction) と呼び、内包的選言を用いて含意を定義しようと提案します。内包的選言を  \bullet で表すとすれば、

  A ならば B= \neg A\bullet B

です。この「ならば」を厳密含意と呼びます*1。内包的選言は(ED)を満たさないので、 厳密含意にかんしては、以前のような仕方ではパラドクスは生じないということになります。

 

このようにして導入された内包的選言および厳密含意の意味について確認しましょう。(*)は「この2つ以外に可能性はない」という主張でした。言い換えれば「この2つを両方とも否定することは不可能だ」ということです。現代的な記法で書いて、同値変形すると

  A\bullet B=\neg \diamondsuit (\neg A\wedge \neg B)=\Box \neg (\neg A\wedge\neg B)=\Box (A\vee B)

となります。 \neg A\wedge \neg B が「選言肢の両方を否定すること」を表しており、 \vee はその連言とド・モルガン則を通じて双対関係にある、外延的選言です。つまり、内包的選言とは、必然的な外延的選言と考えることができそうです。

すると、厳密含意はこうなります。

   A ならば B= \neg A\bullet B=\Box (\neg A\vee B)=\Box (A\supset B)

厳密含意=必然的な実質含意、ですね。めでたしめでたしです。

 

まとめると、まず、ルイスの方針は、(ED)をパラドクスの原因だと同定したうえで、(ED)を満たさない選言によって含意を定義することでパラドクスを回避しようというものでした。そして、(ED)を満たさない内包的選言で決定的な役割を果たしているのは、可能性ないし不可能性という様相であると分析しました。その分析を踏まえて、厳密含意は「必然的な実質含意」として特徴づけられることになります。これが、「なんでルイスは様相 (必然性) を導入すると実質含意のパラドクスが解決すると思ったのだろうか」の答えです。

 

問題の原因を明確に同定し、日常的な例に立ち戻って分析をやり直し、そこから摘出された概念を使って新しい理論を作る、という、哲学的論理学のお手本と言うべき、心が洗われるような議論でした。

でも残念ながら、これでは問題の十分な解決にはならなかったわけですね。次は、ルイスの分析のどこが不十分だったかをかんたんに見ることにしましょう。きょうはここまで。

*1:厳密含意の記号は"fish hook"と呼ばれるかわいい形なんですが、うまく出力できないのでここでは「ならば」で通します。

C.I.ルイスの厳密含意 (1)

今回はコメントへのリプライではなく、ひとつのまとまった話として。

古典論理の含意  A\supset B は「 A が偽であるかまたは  B が真であるときそのときにかぎり真」と定義されます。言い換えれば、

  A\supset B = \neg A\vee B

です。このようにして定義される含意を「実質含意」と呼びます。実質含意は、私たちの「ならば」についての理解とはかけ離れた、いろいろとおかしな帰結を導くということで批判されてきました。とくにもっとも初期から批判されてきたのは、次の2つの推論が妥当になるという点です。

  \neg A\models A\supset B  B\models A\supset B

1つめは「偽なる命題 A は任意の命題  B を含意する」、2つめは「真なる命題  B は任意の命題  A から含意される」です。 A に何でもいいので偽なる命題 ( 2+2=5 とか) を、 B に何でもいいので真なる命題 (讃岐うどんはうまい、とか) を入れてみてください。なんだか変な含意命題が帰結するはずです。

この2つの、古典論理では妥当とされるのに、直観的にはおかしな推論を実質含意のパラドクスと呼びます。

さて、プラグマティズムの哲学者としても知られるC.I.ルイスは、1912年の論文

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に始まる一連の論文で、このような直観に反する実質含意に代わる、私たちの日常的に用法に近い含意として「厳密含意」を提案します*1

1912年と言えば、古典論理のひとまずの完成形とみなされるラッセル・ホワイトヘッド『プリンキピア・マテマティカ』の出版開始が1910年ですから、 このルイスの論文で提示された厳密含意の体系はまさに、「非古典」論理の嚆矢と言えると思います。

話が長くなってきましたが、まあゆっくりいきましょう。

先にオチを言ってしまうと、ルイスの厳密含意は、実質含意のパラドクスとほとんど同型の「厳密含意のパラドクス」が生じてしまうため、実質含意に対するオルタナティブにはなれませんでした。ただし、ルイスのこの試みから結果的に、非古典論理における2つの大きな潮流が生まれます。

ルイスの厳密含意は、ひとことで言えば「必然的な含意」です。A であれば必ず  B、です。現代論理学において、様相的意味あいを含む結合子が登場したのはこれが初めてだそうです。そしてその後、厳密含意に内包されていた様相的成分が含意成分と切り離され、様相演算子として独立に扱われるようになります。現代的な様相論理の誕生ですね。いまの表記法を使えば、厳密含意は  \Box (A\supset B) です。

他方、厳密含意のパラドクスから、様相では本質的な解決にならないということがわかり、含意に含まれる別の特徴を検討すべきだという動きが出てきます。その特徴とは「関連性 (relevance)」です。すなわち、「 A ならば  B」が正しいとすれば、 A B のあいだに内容上の関連性がなければならないはずだ、そして、実質含意・厳密含意のパラドクスは、そのような関連性をもたない含意を導いてしまうからこそ誤りなのだ、とする考え方です。この考え方が、関連性論理を生み出します。様相論理ほど大きな産業にはなっていませんが、わたしのいちばん好きな論理です。

 

さて少し長くなってしまったのですが、以上は、厳密含意についての教科書的な紹介です。ただ、この教科書的な紹介では、あまりよくわからないことがあります。すなわち、なぜそもそもルイスは、実質含意に代えて必然的な含意を導入すればパラドクスが解決されると思ったのでしょうか。もうひとつ、なぜルイスの厳密含意は失敗したのでしょうか。それはおそらく、元々のルイスの着想に穴があったからであるはずです。では、どのような穴があいていたのでしょうか。

1912年論文をこのような問題意識で読んでみると、非古典的な哲学的論理学のお手本のような議論が展開されていて面白かったので、とはいえ長くなったのでエントリを分けて、ルイスの議論を紹介しようと思います。続きます。

*1:この1912年論文の後は、

A New Algebra of Implications and Some Consequences (1913)

The calculus of strict implication (1914)

The Matrix Algebra for Implications (1914)

などと続きますが、今回は1912年論文だけ扱います。

論理学の目的についての抽象的な話

2019年10月7日のコメントペーパーより。レジュメは非古典的な含意と否定I

コメント:論理学の目的というのは、妥当性を突き詰めていって何かの役に立てることなのか、それとも妥当性を高めることそれ自体なのでしょうか。

回答:「論理学は推論の妥当性の研究であるのはわかったが、その研究によってどんないいことがあるのか」という質問と理解して答えます。

ぱっと思いつくのは、いろいろな推論の妥当性を検討し、その規準を明確化することで、私たち人類がより賢く思考し、互いに議論できるようになる、という効果ですね。でも、そのような効果を狙って論理学をやっている人はほとんどいないような気がします。人々によりよい推論をできるようになってもらう、というのは、論理学の仕事ではなく、クリティカル・シンキングなどの別科目の仕事と言ってもよいかと思います (もちろん、同じ1人の人が両方に取り組むことはありえます)。

では、そうした「社会実装」にあまり興味のない論理学者がなぜ推論の妥当性の研究に取り組むのかと言えば、それが、世界と人間のあり方を明らかにするための (ひとつの) 生産的なアプローチだからなのだと思います。

ある一定の領域 (例えば「数」であるとか「知識」であるとか「時間」であるとか) の成り立ちを理解したいとします。このとき、文系理系問わず、アプローチの仕方はさまざまありえます。数の認知を脳科学的に調べるとか、ある科学的知識がどのように形成され定着してきたかを歴史学的に明らかにするとか、物理学の観点から時間を解明するとか、ですね。論理学もそのようなさまざまなアプローチの仕方のうちのひとつです。すなわち、当該領域の成り立ちを理解するときに、「そこではたらいている推論とはどのようなものか」、そして「それらの推論の妥当性の規準はどのようなものか」という問題意識からアプローチするのが論理学です。

とくに、19世紀後半からの現代論理学の発展の中で、こうした推論の妥当性についての問いは、自然と「言語と世界の関係」とか「人間と機械 (コンピュータ) のちがい」といった問題群を巻き込み、そして、これらの問題に対して他の領域にはない独自の洞察をもたらすことがわかってきました。言ってしまえば、ほんとうにほしいのはこうした「独自の洞察」なわけですが、論理学者は、推論の妥当性への問いを、それを引き出すためのトリガーとして使っている、と理解してもらえればよいのではないかと思います。

ここではきわめて抽象的に書きましたが、これからの授業の中でこうした「独自の洞察」をなるべく多く紹介できればと思っています。

古典論理より強くも弱くもない論理

後期の授業が始まったので再開です。

2019年10月7日のコメントペーパーより。レジュメは非古典的な含意と否定I:厳密含意

コメント:

  • 古典論理よりも真に強い論理はトリビアルな論理しかないので、古典論理よりも弱い論理を考えるということでしたが、古典論理より真に強くもなく弱くもない論理はあるのでしょうか。
  • 直感的には理解しがたい推論を古典論理から排除していこうというアプローチだと理解しました。[反対に] 直感的には正しいのに、古典論理において妥当でないとして扱われている推論は、どうやっても妥当にはならないのでしょうか。

回答:同趣旨の質問と理解しましたのでまとめています。

[補足] 古典命題論理はある意味で「最強」の論理で、それよりも真に強い論理はトリビアルな論理 (すべての推論が妥当だとされてしまう論理) しかないという性質が知られています (「ポスト完全性 Post-completeness」と呼ばれます)。なので、「非古典」論理を考えるときにはふつう、古典論理よりも弱い論理を考えるのだという話をしました。[補足終了]

さて、こういう質問が出てくるのでこの授業は気が抜けませんね。(ま、こういう質問が出るよう誘導するような説明の仕方をしたんですが。) はい、あります。わたしが知っている一例だけ紹介します。

ある命題  A からその否定  \neg A が導かれるのはおかしな話です。その逆、 \neg A から  A が導かれるというのも同様におかしいですね。ということで、

 A\supset \neg A\quad \neg A\supset A

はいずれも古典論理では妥当ではありません。他方で、これらを否定した

(AT)  \neg (A\supset \neg A)\quad \neg (\neg A\supset A) 

は、妥当になってもおかしくないですが、古典論理では妥当ではありません。また、これらとほぼ同じ内容の

(BT)  (A\supset B)\supset \neg (A\supset \neg B)\quad (A\supset \neg B)\supset \neg (A\supset B)

も同じく古典論理では妥当ではありません。(AT)は「アリストテレスのテーゼ (Aristotle's Theses)」、(BT)は「ボエティウスのテーゼ(Boethius' Theses)」と呼ばれています。これら(AT)と(BT)を妥当にする論理を一般にConnexive logicと呼びます。訳語はまだ定まっていないと思います。「結合論理」くらいでしょうか。

もちろん、古典論理にこれらをそのまま加えたらトリビアルになってしまいますので、トリビアルでないconnexive logicを作るためには、古典論理の何らかの推論を妥当でなくする必要があります。うまくやればできます。そして、どの推論を落とすかによって、いろんなconnexive logicができることになります。というわけで、connexive logicが「古典論理より真に強くもなく弱くもない論理」の一例ということになります。

現在ではドイツのHeinrich Wansingがconnexive logicの第一人者だと思います。Stanford Encyclopedia of Philosophyのエントリも彼が書いています。

plato.stanford.eduそして、以前京大哲学研究室でポスドクをされていた、われらが大森仁さんが、いまWansing先生と一緒に第一線でバリバリ研究を推進されています。彼がオーガナイズする第5回Connexive Logicワークショップが11月に開催されます。

sites.google.com

わたしはこのワークショップの前に開催されるLogic of Paradoxの学会で発表予定です。なにはともあれ大森さんに会うのが楽しみです。