論理学FAQのブログ

授業でもらったコメントに対して書いたリプライを、ブログ形式に編集しました。

論理学と哲学

2019年4月22日のコメントペーパーより。レジュメは古典命題論理

コメント:論理学は哲学のための道具なのでしょうか。それ自体として哲学なのでしょうか。あるいはその両方なのでしょうか。 

回答:ま、両方でしょうね。いろいろな答え方があると思いますが、両方についてひとつずつ議論を出してみましょう。

 論理学はそれ自体として哲学である

論理学は推論についての、より広く言えば人間の合理的思考についての研究です。しかも、人間が現実にどのように思考しているか (これは心理学や認知科学の問題) ではなく、人間はどのように思考すべきか、正しい思考とはいかなるものかを研究する、規範学としての側面をもっています。論理学はこの意味で、認識論や倫理学、美学などと並ぶ哲学の一分野と考えてよいのではないでしょうか。

論理学は哲学の道具である

現代の論理学の形式言語を用いると、あるひとつの考え方を厳密に、そして体系的に表現することができます。そしてより重要なことに、論理学には無矛盾性完全性など、そのように体系化された論理 (ないし理論) を評価するいくつかの基準があります。これらを満たす論理は、それでもって完全無欠な正しさが保証されるわけではないにしても、ある一定の首尾一貫性 (coherence) を備えていると見なすことができます。ここに、哲学の道具としての論理学の「使いで」があります。

たとえば、「Aかつ \neg A」という矛盾を正しいものとして認めるなんてことは、直観的にはアタマがおかしいとしか思えないかもしれません。しかしじつは、矛盾をある意味で許容するんだけれども、それでも体系としては上記の無矛盾性や完全性などの性質を満たす、矛盾許容論理 (paraconsistent logic) という論理が存在します*1

この事実は、宗教的言説など、矛盾を含むがゆえに通常は``非合理的 (irrational)''と見なされるような考え方にも、じつはある一定の首尾一貫性を見いだせる可能性を示唆しています。例えば、G. プリーストは、このような論理の可能性を後ろ盾として、「真なる矛盾が存在する」と主張する真矛盾主義 (dialetheism)という哲学説を展開しています。

その内容についてはいまは措くとして、ここでのポイントは、論理学が、ある考え方が首尾一貫したまともなものかどうかにかんする、直観とはまた別のオルタナティブな規準を提示しており、その点で哲学の道具として使えるということです。

*1:矛盾許容論理では、矛盾が真になるようなモデル構成が可能になりますが、これは論理の「無矛盾性」とはまた別の話です。論理の無矛盾性とはこの場合、「任意の推論が妥当になってしまうわけではない」ことを意味し、矛盾許容論理もこれは満たします。