論理学FAQのブログ

授業でもらったコメントに対して書いたリプライを、ブログ形式に編集しました。

論理が開く世界―京都新聞夕刊「人文知のフロンティア」寄稿

2020年3月25日京都新聞夕刊に寄稿させていただきました。「人文知のフロンティア」というシリーズの1回なので「論理学は人文学だ」というオチにしていますが、ともあれ中身を楽しんでいただければ幸いです。「論理が開く世界」は新聞社の方に付けていただいたタイトルです。

--- 

ケーニヒスベルクの街を流れるプレーゲル川に、中洲を経由して両岸を結ぶ7本の橋がかかっていた。いまはロシア領でカリーニングラードと呼ばれているが、当時はまだプロシア領である。街の人たちが川沿いを散策しているうちにある問題を思いついた。この7本の橋をすべて、重複なしに一度ずつ渡るような、ひとつづきの散策ルートは可能か。

この「一筆書き」問題が、天才数学者オイラーのもとに持ち込まれた。王道的な数学とは一見無関係なこの問題に、彼はなぜか興味を惹かれたようで、解決はほどなく、1735年の論文で発表された。答えは、一筆書きは不可能。7本の橋をすべて通過するようなルートには必ず重複が含まれることを、オイラーは証明したのである。

現代のグラフ理論の先駆けとして数学史上でも名高いこの証明だが、20世紀後半に活躍した哲学者、マイケル・ダメットのお気に入りの例でもあった。論理的な推論のもつ力と、そこに潜む根本的な謎を鮮やかに示す事例として、彼はいくつかの著作でこの証明を引き合いに出している。

オイラーの証明は、「7本の橋をすべて渡った」という前提から、誰もがその正しさを認める推論の積み重ねを経て、「どこかの橋を重複して2回渡ってしまっている」という結論へと至る。だから、前提が正しいなら結論も絶対に正しい。「絶対に」と言い切れるところが論理的な推論の力である。

他方で、7本の橋を通過したという情報さえあれば、この証明を利用して、その人がどこかの橋を2回渡ったことを、実地に検証しなくても、例えば自宅に居ながらに知ることができる。論理的推論は、直接見たり触ったりできる範囲を越えたところにまで、私たちの認識を拡大してくれる。これもまた、論理的推論の力である。

いや、そんなうまい話があるか、とダメットは言う。絶対に正しいというのは要するに「当たり前」ということだ。ふつう、当たり前のことを言っても情報は増えない。しかし、当たり前の推論を積み重ねることで、たしかに新しい情報が得られることをオイラーの証明は示している。まるでリスク無しの投資である。どうしてそんなことが可能なのか。

周りから手に入る情報を前提として推論を行い、その結論に基づいて行動する。「推論主義」を標榜するアメリカの哲学者ブランダムは、これが私たちの根本的なあり方だと言う。私たちは推論する動物なのである。論理的推論の可能性を問うダメットの疑念はまさに、私たちの存在の根幹部分に向けられている。

唐突だが例えば、公共料金引き落としの前日、「口座の残高は残っているはずだ」と推論する。「はずだ」は推論のしるしである。そこには、自分の判断への確信と同時に、直接確かめてはいないという不安感が表されている(しばしば不安は的中する)。ダメットによれば、このような日常的な推論だけでなく、絶対的に正しいとされる論理的推論でも、厳密に言えば「はずだ」がくっついてくる。推論はどこまで行っても、そうなっている「はずだ」に留まり、実地に検証した「である」には届かない。

面白いのは、にもかかわらず、私たちはこの「はずだ」を、当然のように「である」に読み換え、推論の結論を、あたかも直接確かめた事実のように受け入れていることである。これでいいのだろうか。よくないかもしれない。でも仕方ない、これが私たちなのだとダメットは言う。正当化できない読み換えをやってでも、実地検証の範囲を越えて新しい知識を得ようとする。私たちはそういう存在なのである。

もう一歩踏み込もう。実地検証の範囲では、私たちと世界は言わば密着している。直接確かめられるものだけが存在するものである。推論がもたらすのは、直接見ることはできないがそうなっている「はず」の世界がそこに存在するのだという、私たちと世界の間の新しい関係性である。哲学的には実在論と呼ばれる。推論的動物たる私たちは、いつの間にか、世界のあり方についてのある一定のコミットメントも背負い込んでいるのである。

ダメットの破壊的な、しかし精緻な議論は、19世紀後半から爆発的に発展した形式論理学の成果に支えられている。大学で授業を受けた方はご存知のとおり、手法的にはほぼ数学になってしまって、論理学者たる私の書く論文も記号だらけだが、依然としてその関心は「私たちは何ものなのか」という問いに向けられている。その意味で、論理学はいまもなお、人文学なのである。

(2020年3月25日 京都新聞夕刊)

---

(追記)

本文中で言及したダメットの議論は

philpapers.org

philpapers.org

の第7章"The origin and role of the concept of truth"で展開されているものです。この論文、この章が好きなわたしは、ダメットの正統的な読み手ではないのだと思いますが、「やっぱりちょっと実在論も必要なんちゃうかな」と言ってしまうダメットはやはり魅力的なんですよね。

論理学集中講義をYouTubeライブ配信したので、メモ

京都大学CAPE主催の公開セミナー「論理学上級」をYouTubeライブ配信しました。今後、役に立つかもしれないので情報共有します。

経緯

「論理学上級」は毎年この時期に行っている論理学の集中講義です。わたしは一昨年から担当させてもらっています(一昨年昨年今年)。大学の(文系の)授業ではやらないようなアドバンストなトピックを、ある意味では講師の趣味丸出しで、思い切ってやってみようという試みです。京大の正規の授業ではありません。

今年は3月14,15日に矢田部俊介先生、21,22日にわたしという担当で予定していました。どちらも1日3コマ(5時間)程度×2日というかなり長時間の講義です。

例年はもちろん京大の教室で講義していたのですが、今年の新型肺炎の影響により、まず教室での講義と並行してウェブ配信を行うことに決めました。基本的に少人数の講義なので、教室で行っても感染リスクは低いだろうということと、それでも、出席したいが自粛するという方もいらっしゃるだろうということ、両面を考えてのことでした。

それが急転直下、3月12日に京大文学研究科から「3月16日からの教室使用を当面禁止する」旨の通達が出されます。14,15日は形式上は使用可能ですが、通達の趣旨を踏まえて、私たちも教室使用を諦めることにし、ウェブ配信一本で行うことにしました。配信はYouTubeで行うことにしました。

配信にかかわるテクニカルな事柄(機材、ソフトなど)はすべてわたしが担当しました。ふだん動画作成などもやっているので、こういったことについては詳しいほうだと思いますが、配信に関してはまったくの初めてでした。

考慮項目

まず考えたのは配信はYouTubeにするかZoomにするか、です(ちょうどZoomが脚光を浴び始めた時期でした)。以下の理由からYouTubeに決めました。

  • YouTubeライブ配信については自分でしたことはなかったものの、ときどき見る機会はあり、どういうものかについての相場観はあった。
  • YouTubeはリンクをクリックするだけで誰でも見られる。Zoomも簡単とはいえひと手間かかる 。
  • 論理学の講義なので(スライドではなく)板書が必須。そして、板書をきれいに配信するためには、ある程度の画質が必要。これもYouTubeについては相場観があったが、Zoomはよくわからなかった。
  • YouTubeは自動的にそのままの画質でアーカイブが作成される。Zoomも録画は作成できるが、やはり画質が心配だった。

と並べてみると、要するにYouTubeのほうが馴染みがあった、ということに尽きますね。Zoomについてはこちら側でも聞き手側でもこれから馴染みが出てくるのだと思います。

一方、YouTubeで心配なのは相互性でした。受講者からの質問はチャット欄で文字だけになってしまうし、講師からしてもリアルタイムの「顔」の反応が見えないのは不安です。ということで、YouTubeでの配信と並行してZoomミーティングも開いておくことにしました。

実施

講義の様子は以下のアーカイブから見られます。

3/14: https://youtu.be/KrX0Efnulgg

3/15: https://youtu.be/Pf1YU4JEkkw

3/21: https://youtu.be/CGjikv5m6Ys

3/22: https://youtu.be/bRE0L08kh6I

14,15日はわたしが所属する「人社未来形発信ユニット」のセミナールーム、21,22日はわたしの研究室で行いました。どちらも壁一面がホワイトボードです。尋常でなく長いという点を除けば、画質・音質ともに十分だと思います(少しカクつく時間帯はありました)。

機材セッティングは次のような感じです(汚いですが)。

f:id:takuro_logic:20200322222524p:plain

カメラPanasonic Lumix G8 (レンズキット付属のデフォルトレンズ)

PCMacBook Pro 16inch (現行上位機種カスタマイズなし) これはめちゃくちゃ高いやつですが、少し非力な2015モデルMacBook 12inchでも問題はなさそうでした(長時間の安定性については未テスト)。

キャプチャーボード:Pengo HDMI Grabber 1080p (カメラから出力したHDMIをMBPに入力するための変換器です。)

ワイヤレスマイクRode Wireless Go (5時間講義ぶっ続けでも電池もった!)

Wifi : 有線のほうがいいんでしょうが、部屋のルーターから出しているWiFiで十分でした。上りが30mbpsくらい。

ソフト:OBS。OBS Studioで高画質・高音質な配信をする方法 - 新・VIPで初心者がゲーム実況するには などを参考に設定しました。画質や音質の設定はちょっと気にする必要がありますが、OBS自体は直観的に使いやすいです。

f:id:takuro_logic:20200322223847j:plain

14日のセッティング風景

セッティングはこれだけで、拍子抜けするほどシンプルです。設置状況はさまざまだと思うので、気をつけるべきは、電源・カメラ→PCの入力・LAN(有線なら)それぞれのケーブルの長さです。

これらに加えて、YouTubeのチャット欄+Zoomミーティングの表示用にもう1台PCを立ち上げておきました。

感想:技術面

 今回は、今後のユニットの活動に活かすための試行ということで、かなりちゃんとしたユニットの機材を借りられたのでラッキーではありました。どれだけスペックを下げられるかはわかりません。それに、いまの機材であとどれだけクオリティを上げられるかも。

セッティングが固まれば、準備はかんたんです。15分くらいあれば大丈夫でしょうか。ただし、今回ははじめてだったので、何回もテスト配信をするなど準備に数日かかりました(きらいではないので楽しみましたが)。

おかげさまで、配信にかんする技術的なトラブルはなく、合計20時間ほど安定した配信ができました。

Zoomは基本的に開店休業状態でした。また講師側としてはYouTubeとZoomを同時にハンドリングするのはなかなか難しいと感じました。1コマ終わったあとなどにYouTubeは一時ストップしてZoomに移りまとめて質疑応答用の時間をとる、といった運用がよいかと思います。

感想:講師として

聞き手のリアクションが見えないというのは不安でしたが、やってみると、正直あまり違和感を覚えず喋りまくりました。これは、わたしがもともと聞き手とあまりインタラクションをしないタイプの人間だからかもしれません。

教室講義を想定して作った内容をまったく改変せずに配信にぶつけて、しかも1日5時間というのはちょっと常軌を逸しているかもしれませんが、ま、好きな人はこのくらい大丈夫なのではないでしょうかアーカイブもあるしね。

結果・反響

配信中のリアルタイム視聴者数は、14日:70〜80人、15日:40〜50人、21日:30〜40人、22日:25人程度、でした。22日はさすがにツワモノだけが残っていたようで、視聴者数はずっと安定していました(^^)

ぜんぜん多くはないのですが、もともとかなり論理学のかなりマニアックな話題を扱う講義で、例年の受講者数はせいぜい20人程度ということ考えると、こんなものではないでしょうか。アーカイブの視聴者数も考えると、わたしとしては十分です。

他方でツイッターでは、わたしはフォロワー数1000人程度の弱小アカウントですが、こういう時勢ということもあり、告知ツイートに多くのRTやいいねをいただきました(100いいね越えることなんて普段ないんですが)。正直、この講義の内容をしっかり見て楽しめる人は少数だと思いますが、多くの人に向けて「やってるぞ感」は出せたのではないかと思います。

 

新型肺炎はさっさと収まってほしいですが、今後もこういう試みは続けていこうと思います。ご意見ありましたらお寄せください。

論理的実在論、にたどりつけなかった話

 前エントリで少し示唆した「論理学の哲学」についての話です。

takuro-logic.hatenablog.com

学生さんに「論理的実在論」(論理の実在論だったか、論理にかんする実在論だったか、言葉はあれですが) について教えてください、と言われていたので、少し勉強しました。ベースとして読んだのはTahkoさんの

link.springer.com

です。さいきんはオープンアクセスが多くていいですね。ただ、残念ながらあまりおもしろくはなかったので、どうおもしろくなかったのか考えてみます。

まず、論理的実在論とは何か。幾人かの論者に依拠しつつ、Tahkoは次のようにまとめます。論理的実在論とは、次の2つのテーゼにコミットする立場です:

(LF) 論理的事実 (logical fact、ないし論理的構造) なるものが存在する。すなわち、論理についての主張の真理値にかんする事実 (fact of matter) というものが存在する。

(IND) 論理的事実は、私たちの認知や言語の成り立ちや実践からは独立である。それらは、心からも言語からも独立 (mind- and language-independent) という意味で客観的である。

たとえば、排中律が論理的真理であるのは、それを(論理的に)真にする事実が、私たちの心や言語のなかにではなく、客観的な世界の側にあるから、という考え方のようです。そして、その場合の「事実」というのはだいたい、モデル論的な構造のことを念頭においておけばよさそうです。

わかるようなわからないような特徴づけなんですが、考察の出発点としても、やっぱりナイーブすぎるように思います。とくに、Tahkoが重点をおいている(IND)です。認知や言語から独立の客観的事実、という考え方です。

たとえば、論理学の基本的な定理である完全性定理は「任意の推論に対して、その妥当性を示す証明か、その非妥当性を示す反例モデルのいずれかが存在する」という定理です。「証明」はもちろん言語的な構成物です。他方、ここでの「反例モデル」はしばしば、論理式の集合からなる「カノニカルモデル」として与えられます。つまり、こちらも言語的な構成物です。完全性定理は、言語的な構成物を大々的に用いて証明される定理です。

比喩的に言うと、ここには、言語それ自体が、自身の論理的正しさを支えうるような「客観的事実」を構成しているという驚きがあります (わりとみんなに共有されている驚きだと思うんですが、どうでしょう)。論理にかかわる実在論を論じるなら、こういう驚きが出発点になると思うんですが、残念ながら、(IND)にはそういう驚きのカケラも見いだせないんですよね。

これは、言語独立なわけがないので(IND)は間違っている、と言っているわけではないです。「そもそもこういう考えてないのかしら?せっかくオイシイところなのに」と言いたくなるということです。

言い換えると、論理に特有の事柄をあまり考えずに、「実在論テンプレート」をそのまま当てはめているだけのように見えるのです。

  • 数学的事実は、私たちの認知や言語の成り立ちや実践からは独立である。
  • 物理的事実は、私たちの認知や言語の成り立ちや実践からは独立である。
  • 社会的事実は、私たちの認知や言語の成り立ちや実践からは独立である。
  • ・・・
  • 〇〇的事実は、私たちの認知や言語の成り立ちや実践からは独立である。

というテンプレートを、とりあえず論理に当てはめてみて、さてどうなるか見てみよう、という態度に見えるわけです。これでは、ちょっと動機づけが薄いように思います。

もう少しいやらしい話をすると、論理的実在論の動機づけについて、Tahkoは次のように言います。

なぜ論理的実在論に興味をもたねばならないのか?ひとつ明確な理由は、それが論理に対する興味ある基礎づけ(foundation)あるいは根拠づけ(grounding)を与えるだろうというものである。

えっいまどき基礎づけ?とか思うわけですが、そこに「あるいはgrounding」と付け加えられているので、わたしとしては、前エントリで数学の哲学について述べた「応用問題」の構造を見てとってしまいます。つまり、分析形而上学のホットトピックであるgroundingの概念を論理に応用するとどうなるのか、という話であって、ほらやっぱり、論理そのものにそんなに興味ないんじゃない?と。

もちろん、「テンプレート」にしても「応用問題」にしても、 理論の一般的妥当性を測り、一定の規格のもとでの可能な見解のカタログを作る、ということですから、意味のあるアプローチではあるとは思います。でも、まあ、わたしとしては、論理学にはこんなにいろいろおもしろいことがあるのに、それをほっといてなんでそんな空中戦やってんの…というのが正直な感想です。

君ら、ほんまに興味あるんか?

以前、科学基礎論学会でイアン・ハッキングの数学の哲学について発表をしました(スライドはこちら)。ちょうど来日滞在中だったLeon Horsten先生と (それにわれらが伊藤遼さんと) 一緒にパネルをさせてもらったのが、とてもよい思い出です。

発表の内容は「なんでハッキングは分析的な数学の哲学がきらいなのか」。で、おもいっきりざっくり言えば、ハッキングが言いたいのは「君ら、じつは数学にはそんな興味ないんやろ?」ということです。さりげなく宣伝ですが、

www.morikita.co.jp

この本での議論に基づいています。

もう少し詳しく言うとこういうことです*1。ハッキングの見立てによれば、20世紀後半以降の分析哲学の伝統における数学の哲学の議論のやり方は、概して、そのときどきの流行の哲学理論を取り上げて、それが数学にいかにして適用できるか(あるいはできないか)を論じる、というものでした。彼の念頭にあるのは、いわゆる「ベナセラフのジレンマ」に登場する因果的な知識論や表示的意味論といった哲学理論です。

これらは、必ずしも数学にかんする哲学的な考察からではなく、むしろ別のところで生まれた理論です。数学はそこでは、それらの理論の一般的な妥当性を測るための試金石として用いられているにすぎません。ハッキングとしては「君ら、じつは数学にはそんな興味ないんやろ?」と言いたくなるわけです。ほんとに興味があるのはそっちの理論の方でしょ、と。

もちろん、このような分析的な数学の哲学の営みからも多くを学べるということは、ハッキングも認めています。でも、彼にしてみれば、それは付随的なものにすぎません。プラトンからウィトゲンシュタインに至る哲学者たちの数学への態度を振り返ってみれば、数学というのはそのような「応用問題」の材料なんかではなかった、むしろ数学それ自体がシリアスな哲学的問題の源泉だったじゃないか、というのが、ハッキングの言いたいことでした。

 

で、なんでこういうことを思い出しているかというと、いまちょうど論理学の哲学の論文を読んでいて、まさに同じことを感じたからです。「君ら、じつは論理学にはそんな興味ないんやろ?」です。まだその論文は読み終わっていないので、もう少し検討しますが、この印象が正しければまた報告します。

*1:いちおうお断りしておくと、かなり要約・意訳・咀嚼が入っています。

C.I.ルイスの厳密含意 (3)

ずいぶん間が空きましたが、しれっと再開します。続くかどうかは微妙。ともあれ、厳密含意の話が途中で終わっていたので、それをしめくくりたいと思います。

ここまで2つの記事で、C.I.ルイスの厳密含意がどのような問題意識とどのような着想のもとで生み出されたのかを見ました。

takuro-logic.hatenablog.com

takuro-logic.hatenablog.com

ここでは、厳密含意の何がダメだったのかを考えます。 「え、厳密含意ダメなの?」と思われるかもしれませんが、厳密含意のパラドクスというのが生じてしまいます。

 \Box B\models A\prec B  \neg \diamondsuit A\models A\prec B

これらが(少なくともルイスが意図していた体系では)成り立ってしまいます。\prec は厳密含意を表します*1

前回見たように、厳密含意  A\prec B は必然的な実質含意です。

 A\prec B= \Box (A\supset B) =\Box (\neg A\vee B)

すると、いま風に言うなら*2\Box B が真なら、すべての可能世界で  B が真ということですから、もちろん  \neg A\vee B もすべての可能世界で真です。つまり \Box (\neg A\vee B) が真ですね。 \neg \diamondsuit A のほうも同様です。というわけで、上の2つの推論は妥当です。

そして、これらはそれぞれ

  • 必然的に真な命題 (\Box B) は、任意の命題から(厳密)含意される
  • 必然的に偽な命題 (\neg \diamondsuit A) は、任意の命題を(厳密)含意する

ということですね。ここでの AB はまったく関係のない命題でもかまいません。B に「ソムタムおいしい」(必然的真理)とか、そして A には「2+2=5」とか入れてみてください。これは、以前に見た実質含意のパラドクス

 B\models A\supset B  \neg A\models A\supset B

とほとんど同じ形、同じ状況です。以前はたんなる「真な命題」だったのが「必然的に真な命題」に、「偽な命題」が「必然的に偽な命題」に変わっただけで、まったく関係のない命題のあいだに含意関係が成り立ってしまう、という事態は同じです。

じつはルイスは「厳密含意にかんしてはこれでいいんだ!」と力説しており*3、その議論を検討する必要はあるかもしれませんが、やはりどうやっても無理があるように思います。というわけで、厳密含意のパラドクスは「実質含意に代わる適切な含意を見出す」というプロジェクトにとって致命的であったという結論にして、次に進みましょう。検討したいのは、厳密含意の何がダメだったのか、です。

こういうことではないかと思います。ルイスは、含意は前件と後件の必然的結合に存すると考えて必然性概念を導入しました。これはいいんですが、問題は結合のほうに十分気を配れていなかったことではないか。ひとつの命題を単独で考えることと、ふたつ(以上)の命題を、連言でも選言でも含意でも何でもいいんですが、とにかく結びつけて考えることとは何がちがうのか、彼はあまり気にしていないように見えるのです。これが、厳密含意のダメだったところではないでしょうか。

「とはいえ結合ってなによ」と思われるかもしれませんが、それほど難しいことではないでしょう。B という命題が成り立つかどうかを B 単独で考えているときと、A という前提のもとで B が成り立つかどうかを考えているときでは、ちがうことが起こっているだろうということです。もう少し言えば、A を考慮に入れることで、わたしたちは、B 単独で考えていたときとは文字通り異なる前提のもとで、あるいは異なる視点、異なる文脈、異なる可能性のもとで考えている、ということです。

このように考えれば、厳密含意のパラドクス はブロックできる見込みが出てきます。B が必然的に成り立つとしても、それは「いまこの視点のもとで考えれば」の話です。A という前提を置くことで、私たちは別の視点に移動します。そしてその新しい視点のもとでは、B が(必然的に)成り立つかどうかは、以前とはまた別の話です。つまり、A という前提のもとで必ずしも B が成り立つとはかぎりません。言い換えれば、B が必然的に成り立つとしても、"A ならば B"が成り立つとはかぎりません。

私見では、(厳密含意のある意味で正統な後継者である) 関連性論理の3項関係意味論のベースにあるのが、この「複数の命題を結びつけて考えると視点が移動する」という考え方です。歴史的にはそう単純な話ではありませんが、そのような合理的再構成が可能ではないかと思っています。つまり、厳密含意に欠けていた「命題同士の結合」についての洞察を補ってやることで得られたのが、関連性論理の含意 (relevant implication) だということです。

3項関係についてもそのうち書きたいですね。ともあれきょうはこの辺で。

*1:本当はもう少しカーリーで、釣り針に似た形の結合子なのですが、ここでは表示できないので、それなりに似ている\precで代用します。

*2:ルイスの頃にはまだ可能世界意味論はありませんので。

*3:A Survey of Symbolic Logic, p.336 あたりです。

C.I.ルイスの厳密含意 (2)

続きです。前回はこちら。

takuro-logic.hatenablog.com

かんたんに復習すると、「実質含意のパラドクスを解決するため、C.I.ルイスは必然的な含意としての厳密含意を導入した」という教科書的なお話に対して、ではなんでルイスは様相 (必然性) を導入すると実質含意のパラドクスが解決すると思ったのだろうか、という疑問を、彼の1912年の論文

academic.oup.com

を読んで考えよう、というものです。ただし、以下のまとめは、ルイスの論文をかなり大幅に再構成してますので、その点ご容赦を。

 

さて、議論を始めます。実質含意は

  A\supset B = \neg A\vee B (「A ならば B= A が偽または  B が真」)

を満たす、あるいはこのように定義される含意です。 「ならば」が「または」を使って表される (ないし定義される) というのは一見おかしなように思われますが、ルイスはこのことには異論は唱えません。

じっさい、「または (or)」には、「トリック・オア・トリート」に典型的に見られるような、「 Aさもなくば B」「 A でないならば B」という含意的な意味合いが含まれています。このような意味合いを含んだ適切な選言を使えば、パラドクスに陥ることなく、うまく含意が定義できるかもしれません。これは裏を返せば、実質含意の定義に使われる選言は適切なものではなかったということですが、では、どこが問題なんでしょうか。

実質含意のパラドクスとは、

  \neg A\models A\supset B   B\models A\supset B

という、直観的には正しいとは思えない推論が古典論理では妥当になってしまう、という問題でした。これら2つの推論を、選言  \vee を使って書き直すと、

  \neg A\models \neg A\vee B   B\models \neg A\vee B

となります。これは、いわゆる選言導入則

(ED)  A\models A\vee B   B\models A\vee B

 の一例にほかなりません。ルイスは (ED) を満たすような選言を外延的選言 (extensional disjunction) と呼びます。 (ED) は、 A あるいは  B の少なくとも一方が真であれば  A\vee B も真であるという、しごく当たり前に思える性質ですが、上で見たとおり、外延的選言を使って定義された含意はパラドクスに陥ることになります。というわけで、これがいわば病気の原因です。

 

とはいえ、(ED) を満たさないような選言なんてあるのかしらと思われるかもしれません。それが、わりとあるんですね。たとえば、突然iPhoneの電波が繋がらなくなったとき、わたしが慌てて

(*)「電話代払ってなくて止められたか、このiPhone壊れたかのどっちかやわ」

と言ったとしましょう。冷静な人なら「そうとは限らないでしょう」と言うのではないでしょうか。まちがって機内モードにしてたのに気づいていないだけかもしれないし、ケータイ会社の電波全体に障害が出ているのかもしれません。他の可能性もあるだろうというわけです。

ポイントは、上のわたしの発話(*)は、たとえ選言肢のどちらか (止められたor故障) が現実に真であったとしても、真とは見なされないだろう、ということです。なぜか。それは、(*)は現実ではなく可能性についての話だからです。すなわち、現実にどちらが真なのかとは関係なく「ともあれこれら2つ以外に可能性はない」という主張として理解されるからです。じっさい、上の仮想問答でわかるとおり、(*)は、他の可能性が指摘されることによって棄却されてしまいます。

さて、このような見立てが正しいとすれば、(*)は、現実に  A あるいは  B が真であっても真にならないような「 A または  B」です。つまり、私たちが求めている、(ED)を満たさない選言の実例にほかなりません。ルイスは、このように(ED)を満たさないような選言を内包的選言 (intensional disjunction) と呼び、内包的選言を用いて含意を定義しようと提案します。内包的選言を  \bullet で表すとすれば、

  A ならば B= \neg A\bullet B

です。この「ならば」を厳密含意と呼びます*1。内包的選言は(ED)を満たさないので、 厳密含意にかんしては、以前のような仕方ではパラドクスは生じないということになります。

 

このようにして導入された内包的選言および厳密含意の意味について確認しましょう。(*)は「この2つ以外に可能性はない」という主張でした。言い換えれば「この2つを両方とも否定することは不可能だ」ということです。現代的な記法で書いて、同値変形すると

  A\bullet B=\neg \diamondsuit (\neg A\wedge \neg B)=\Box \neg (\neg A\wedge\neg B)=\Box (A\vee B)

となります。 \neg A\wedge \neg B が「選言肢の両方を否定すること」を表しており、 \vee はその連言とド・モルガン則を通じて双対関係にある、外延的選言です。つまり、内包的選言とは、必然的な外延的選言と考えることができそうです。

すると、厳密含意はこうなります。

   A ならば B= \neg A\bullet B=\Box (\neg A\vee B)=\Box (A\supset B)

厳密含意=必然的な実質含意、ですね。めでたしめでたしです。

 

まとめると、まず、ルイスの方針は、(ED)をパラドクスの原因だと同定したうえで、(ED)を満たさない選言によって含意を定義することでパラドクスを回避しようというものでした。そして、(ED)を満たさない内包的選言で決定的な役割を果たしているのは、可能性ないし不可能性という様相であると分析しました。その分析を踏まえて、厳密含意は「必然的な実質含意」として特徴づけられることになります。これが、「なんでルイスは様相 (必然性) を導入すると実質含意のパラドクスが解決すると思ったのだろうか」の答えです。

 

問題の原因を明確に同定し、日常的な例に立ち戻って分析をやり直し、そこから摘出された概念を使って新しい理論を作る、という、哲学的論理学のお手本と言うべき、心が洗われるような議論でした。

でも残念ながら、これでは問題の十分な解決にはならなかったわけですね。次は、ルイスの分析のどこが不十分だったかをかんたんに見ることにしましょう。きょうはここまで。

*1:厳密含意の記号は"fish hook"と呼ばれるかわいい形なんですが、うまく出力できないのでここでは「ならば」で通します。

C.I.ルイスの厳密含意 (1)

今回はコメントへのリプライではなく、ひとつのまとまった話として。

古典論理の含意  A\supset B は「 A が偽であるかまたは  B が真であるときそのときにかぎり真」と定義されます。言い換えれば、

  A\supset B = \neg A\vee B

です。このようにして定義される含意を「実質含意」と呼びます。実質含意は、私たちの「ならば」についての理解とはかけ離れた、いろいろとおかしな帰結を導くということで批判されてきました。とくにもっとも初期から批判されてきたのは、次の2つの推論が妥当になるという点です。

  \neg A\models A\supset B  B\models A\supset B

1つめは「偽なる命題 A は任意の命題  B を含意する」、2つめは「真なる命題  B は任意の命題  A から含意される」です。 A に何でもいいので偽なる命題 ( 2+2=5 とか) を、 B に何でもいいので真なる命題 (讃岐うどんはうまい、とか) を入れてみてください。なんだか変な含意命題が帰結するはずです。

この2つの、古典論理では妥当とされるのに、直観的にはおかしな推論を実質含意のパラドクスと呼びます。

さて、プラグマティズムの哲学者としても知られるC.I.ルイスは、1912年の論文

academic.oup.com

に始まる一連の論文で、このような直観に反する実質含意に代わる、私たちの日常的に用法に近い含意として「厳密含意」を提案します*1

1912年と言えば、古典論理のひとまずの完成形とみなされるラッセル・ホワイトヘッド『プリンキピア・マテマティカ』の出版開始が1910年ですから、 このルイスの論文で提示された厳密含意の体系はまさに、「非古典」論理の嚆矢と言えると思います。

話が長くなってきましたが、まあゆっくりいきましょう。

先にオチを言ってしまうと、ルイスの厳密含意は、実質含意のパラドクスとほとんど同型の「厳密含意のパラドクス」が生じてしまうため、実質含意に対するオルタナティブにはなれませんでした。ただし、ルイスのこの試みから結果的に、非古典論理における2つの大きな潮流が生まれます。

ルイスの厳密含意は、ひとことで言えば「必然的な含意」です。A であれば必ず  B、です。現代論理学において、様相的意味あいを含む結合子が登場したのはこれが初めてだそうです。そしてその後、厳密含意に内包されていた様相的成分が含意成分と切り離され、様相演算子として独立に扱われるようになります。現代的な様相論理の誕生ですね。いまの表記法を使えば、厳密含意は  \Box (A\supset B) です。

他方、厳密含意のパラドクスから、様相では本質的な解決にならないということがわかり、含意に含まれる別の特徴を検討すべきだという動きが出てきます。その特徴とは「関連性 (relevance)」です。すなわち、「 A ならば  B」が正しいとすれば、 A B のあいだに内容上の関連性がなければならないはずだ、そして、実質含意・厳密含意のパラドクスは、そのような関連性をもたない含意を導いてしまうからこそ誤りなのだ、とする考え方です。この考え方が、関連性論理を生み出します。様相論理ほど大きな産業にはなっていませんが、わたしのいちばん好きな論理です。

 

さて少し長くなってしまったのですが、以上は、厳密含意についての教科書的な紹介です。ただ、この教科書的な紹介では、あまりよくわからないことがあります。すなわち、なぜそもそもルイスは、実質含意に代えて必然的な含意を導入すればパラドクスが解決されると思ったのでしょうか。もうひとつ、なぜルイスの厳密含意は失敗したのでしょうか。それはおそらく、元々のルイスの着想に穴があったからであるはずです。では、どのような穴があいていたのでしょうか。

1912年論文をこのような問題意識で読んでみると、非古典的な哲学的論理学のお手本のような議論が展開されていて面白かったので、とはいえ長くなったのでエントリを分けて、ルイスの議論を紹介しようと思います。続きます。

*1:この1912年論文の後は、

A New Algebra of Implications and Some Consequences (1913)

The calculus of strict implication (1914)

The Matrix Algebra for Implications (1914)

などと続きますが、今回は1912年論文だけ扱います。