論理学FAQのブログ

授業でもらったコメントに対して書いたリプライを、ブログ形式に編集しました。

モデルの存在

2019年5月7日のコメントペーパーより。レジュメは古典命題論理

コメント:モデルが存在するというのは、論理的に考えて矛盾しないようなモデルを思いつけば存在していると言っていいのですか。モデルが存在するというのはどういうことなのでしょうか。

回答:たとえば、

大西は研究室か教室にいる、それゆえ、大西は研究室にいる

という推論を考えます。前提も結論も (2019年5月10日の昼時点では) 真ですが、妥当ではありません。それは、前提が真であるにもかかわらず、結論が偽であるような状況がありうるからです (わたしが教室にいる状況ですね)。

難しいのは、ここでの「ありうる状況」とは何かということです。この現実の世界とは異なるさまざまな「可能的状況」とでも呼びうるものが、この世界とは別の場所に一揃い存在しているのでしょうか。しかし、そんなものいったいどこにあるんでしょうか。それらはこの世界とは同じ意味で「存在している」とは言えず、たんにそれらをわたしたちが思考できる、想像できると言うほうがよい気もします。

しかし、何が想像可能なのか、その範囲を確定するのも難しいように思われます。挙げられている「論理的に矛盾しない」というのは、想像可能性の最低条件のようにも思えますが、わたしたちはたとえば、「おなかいっぱい食べながらもみるみるうちに痩せていく」のような矛盾した状況を思い描いたり、望んだりしないでしょうか。もう少し真面目に言うと、2足す2が5であるような、あるいは三角形が4つの辺をもつような、そのような状況を本当に想像することはできないのでしょうか。これらは日本語としては表現できていて、意味は理解できますよね。何が足りないのでしょうか。

以上のような、「可能的状況とは何か」は真剣な検討に値する重要な哲学的問題だと思いますが、すぐに答えが出るようなものでもありません。そこで論理学では、この問題をいわばバイパスして、可能的状況の数学的代理物としての「モデル」を用います。そこでは、実在しているか想像可能かということにはかかわらず、定義に従って数学的に構成できるかどうかが存在の規準です。

もちろん、この数学的なモデルの概念が、元々わたしたちが考えていた「可能的状況」の意味合いをちゃんと捉えられているかどうかはつねに検討の余地があります。また、「数学的に構成できるかどうか」という規準にしても、このあとの質問に答えるように、どのような理論のもとで考えるかによって変動する可能性があります。それでも、出発点のところで考え込むよりも、数学的にいろいろなモデルをどんどん定義してみることでわかることはたくさんあり、その意味でこの方法はとても有用と言えると思います。