論理学FAQのブログ

授業でもらったコメントに対して書いたリプライを、ブログ形式に編集しました。

オンライン講義YouTube配信実録 (1)

論理学と関係ないですが、情報としては価値があると思いますので共有します。

いま、わたしの本務先で、YouTubeで配信するオンライン講義シリーズを提供しています。わたしは講義をする立場ではなく、カメラやPCを操作して配信を行う役割です。そこで、配信をどのようにやっているか、どこがうまくいったか、どこで失敗したか、などなどを差し障りのない範囲で共有していこうと思います。

以前にやった論理学のオンライン集中講義の配信についてはこちら。

takuro-logic.hatenablog.com

配信内容

今回は、講義開始に先立ってのオリエンテーションの配信です。

立て付けは以下のとおりでした。

  • 基本的に、先生と聞き手の2人で話を進める→マイクが2本必要
  • スライドも用いる→スライドとカメラの切り替え、PinP (ワイプ) が必要
  • 途中で動画も流す
  • YouTubeライブ配信Twitterライブでもかんたんに配信する。

比較的スムーズにいきましたが、ワンオペは厳しいなあという感想です。

機材

  • MacBook Pro 16インチ (MBP, 配信メイン機)
  • Macbook 12インチ (スライド操作用)
  • Atem Mini Pro (AMP, 映像・音声ミキサー)
  • Panasonic Lumix G8 (カメラ)
  • Rode Wireless Go ×2 (ワイヤレスマイク)
  • Neewer LEDライト480 LED (照明)
  • 各種ケーブル
  • iPad (YouTubeモニター用)
  • iPhone (Twitterライブ用)

今回は回線は部屋にあるWifiで、上りが60Mbpsくらいありました。十分ですね。

配線は画像のような感じ。

f:id:takuro_logic:20200702224055j:plain

カメラとスライド操作用PCの映像、およびワイヤレスマイクの音声をAMPに取り込んで、それをMBPに送るという仕組みです。

AMPを使った理由は、3.5mmミニプラグのマイク入力が2個あるから(だけ)です。V-02HDというスイッチャーも持ってるんですがあれはHDMIでしかマイク入力できないんです。ともあれ、こういうの、ほしいですね↓

amzn.to

あるいは、複数人の声をきれいにとれる据え置き型のマイクがほしい!情報求む。

OBS設定

「シーン」を(1)開始前、(2)通常配信、(3)動画再生、(4)終了後、の4種類作りました。

  1. 開始前:「画像スライドショー」
  2. 通常配信:「映像キャプチャデバイス」と「音声入力キャプチャ」でAMPの映像音声を流す
  3. 動画再生:「メディアソース」で再生したい動画を登録すると、思いのほかかんたんに、そしてきれいに流れたので感動
  4. 終了後:「画像」

「音声入力キャプチャ」のマイク音声に「ノイズ抑制」のフィルタを強めにかけました(-60dbくらい)。狭いところでやっているので、MBPのファンの音を拾ってしまうんです。

ともあれ、シーンを予め設定しておけば、わりとスムーズに切り替えできますね。

設営

以上の機材の設営自体は20分くらいでできますね。

設営が終わったら、テスト用のYouTube URLからテスト配信をします。

それをiPadでモニターして、主に音声のテストをします。音量と、映像と音のズレのチェックですね。今回はOBSで300ms音声を遅らせるとまずまずだったように思います。

テストは10分くらいあればいいでしょうか。とにかく、設営からテスト、本配信までのプロセスを練習して、何度もイメージしておくのがだいじです。

配信

配信が始まったら、iPadでモニターしつつ、AMPでスライドとカメラ映像の切り替え(PinP含む)、OBSでシーンの切り替えを行います。

YouTube上の配信映像・音声はかなり遅れて届くので、現場の切り替えのタイミングがわからなくなってきます。あまりずっとモニターする必要はないかもしれませんね。

YouTubeに加えて、iPhoneからTwitterライブ(Periscopeから)もするように命じられたので、そちらも同時に流します。こちらはモニターもせずほったらかしです。

映像やシーンの切り替えをしていると、YouTubeのコメントまではなかなかフォローできませんね。でもこれも練習とイメージトレーニングの問題でしょうか。

失敗

配信は基本的にきれいな映像と音で成功したと思いますが、YouTubeの配信を切ったあと安心して、Twitterライブを終了するのを忘れてました。あまり実害はなかったと思いますが。ほんとどれだけ緊張感をもっていても(あるいは緊張しているからこそ)なかなかすべてに気を配るのは難しいです。

次回からはこれにZoomミーティングが加わります。ワンオペでほんとだいじょうぶでしょうか。

授業動画公開:様相命題論理

ご存知のように今期の大学はオンライン授業で何とかしのいでいるわけですが、わたしも例にもれずたくさんの動画を作っています。だいぶたまってきたので、論理学の授業の動画(の一部)を公開することにしました。

レジュメ

まず、こちらからレジュメを見ていただいたら内容はだいたいわかると思います。前期は、古典命題論理→様相命題論理→古典述語論理、と進みます。

sites.google.com

動画:様相命題論理

ここでは、様相命題論理パートの動画を公開します。古典命題論理は動画作るまでもないだろうということで動画はありません。レジュメだけで何とかしてください。述語論理はこれから作ります。

www.youtube.com

レジュメを読みながら見てもらうことを想定しています(各動画の概要欄にもレジュメへのリンクがあります)。9本、再生リストになっています。

真理表の計算はできるようになったけど、その次の様相論理や述語論理になるとちょっとしんどいなと思っている方の独習の助けになるかなと思いますので、お時間ありましたらご覧ください〜。

論理が開く世界―京都新聞夕刊「人文知のフロンティア」寄稿

2020年3月25日京都新聞夕刊に寄稿させていただきました。「人文知のフロンティア」というシリーズの1回なので「論理学は人文学だ」というオチにしていますが、ともあれ中身を楽しんでいただければ幸いです。「論理が開く世界」は新聞社の方に付けていただいたタイトルです。

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ケーニヒスベルクの街を流れるプレーゲル川に、中洲を経由して両岸を結ぶ7本の橋がかかっていた。いまはロシア領でカリーニングラードと呼ばれているが、当時はまだプロシア領である。街の人たちが川沿いを散策しているうちにある問題を思いついた。この7本の橋をすべて、重複なしに一度ずつ渡るような、ひとつづきの散策ルートは可能か。

この「一筆書き」問題が、天才数学者オイラーのもとに持ち込まれた。王道的な数学とは一見無関係なこの問題に、彼はなぜか興味を惹かれたようで、解決はほどなく、1735年の論文で発表された。答えは、一筆書きは不可能。7本の橋をすべて通過するようなルートには必ず重複が含まれることを、オイラーは証明したのである。

現代のグラフ理論の先駆けとして数学史上でも名高いこの証明だが、20世紀後半に活躍した哲学者、マイケル・ダメットのお気に入りの例でもあった。論理的な推論のもつ力と、そこに潜む根本的な謎を鮮やかに示す事例として、彼はいくつかの著作でこの証明を引き合いに出している。

オイラーの証明は、「7本の橋をすべて渡った」という前提から、誰もがその正しさを認める推論の積み重ねを経て、「どこかの橋を重複して2回渡ってしまっている」という結論へと至る。だから、前提が正しいなら結論も絶対に正しい。「絶対に」と言い切れるところが論理的な推論の力である。

他方で、7本の橋を通過したという情報さえあれば、この証明を利用して、その人がどこかの橋を2回渡ったことを、実地に検証しなくても、例えば自宅に居ながらに知ることができる。論理的推論は、直接見たり触ったりできる範囲を越えたところにまで、私たちの認識を拡大してくれる。これもまた、論理的推論の力である。

いや、そんなうまい話があるか、とダメットは言う。絶対に正しいというのは要するに「当たり前」ということだ。ふつう、当たり前のことを言っても情報は増えない。しかし、当たり前の推論を積み重ねることで、たしかに新しい情報が得られることをオイラーの証明は示している。まるでリスク無しの投資である。どうしてそんなことが可能なのか。

周りから手に入る情報を前提として推論を行い、その結論に基づいて行動する。「推論主義」を標榜するアメリカの哲学者ブランダムは、これが私たちの根本的なあり方だと言う。私たちは推論する動物なのである。論理的推論の可能性を問うダメットの疑念はまさに、私たちの存在の根幹部分に向けられている。

唐突だが例えば、公共料金引き落としの前日、「口座の残高は残っているはずだ」と推論する。「はずだ」は推論のしるしである。そこには、自分の判断への確信と同時に、直接確かめてはいないという不安感が表されている(しばしば不安は的中する)。ダメットによれば、このような日常的な推論だけでなく、絶対的に正しいとされる論理的推論でも、厳密に言えば「はずだ」がくっついてくる。推論はどこまで行っても、そうなっている「はずだ」に留まり、実地に検証した「である」には届かない。

面白いのは、にもかかわらず、私たちはこの「はずだ」を、当然のように「である」に読み換え、推論の結論を、あたかも直接確かめた事実のように受け入れていることである。これでいいのだろうか。よくないかもしれない。でも仕方ない、これが私たちなのだとダメットは言う。正当化できない読み換えをやってでも、実地検証の範囲を越えて新しい知識を得ようとする。私たちはそういう存在なのである。

もう一歩踏み込もう。実地検証の範囲では、私たちと世界は言わば密着している。直接確かめられるものだけが存在するものである。推論がもたらすのは、直接見ることはできないがそうなっている「はず」の世界がそこに存在するのだという、私たちと世界の間の新しい関係性である。哲学的には実在論と呼ばれる。推論的動物たる私たちは、いつの間にか、世界のあり方についてのある一定のコミットメントも背負い込んでいるのである。

ダメットの破壊的な、しかし精緻な議論は、19世紀後半から爆発的に発展した形式論理学の成果に支えられている。大学で授業を受けた方はご存知のとおり、手法的にはほぼ数学になってしまって、論理学者たる私の書く論文も記号だらけだが、依然としてその関心は「私たちは何ものなのか」という問いに向けられている。その意味で、論理学はいまもなお、人文学なのである。

(2020年3月25日 京都新聞夕刊)

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(追記)

本文中で言及したダメットの議論は

philpapers.org

philpapers.org

の第7章"The origin and role of the concept of truth"で展開されているものです。この論文、この章が好きなわたしは、ダメットの正統的な読み手ではないのだと思いますが、「やっぱりちょっと実在論も必要なんちゃうかな」と言ってしまうダメットはやはり魅力的なんですよね。

論理学集中講義をYouTubeライブ配信したので、メモ

京都大学CAPE主催の公開セミナー「論理学上級」をYouTubeライブ配信しました。今後、役に立つかもしれないので情報共有します。

経緯

「論理学上級」は毎年この時期に行っている論理学の集中講義です。わたしは一昨年から担当させてもらっています(一昨年昨年今年)。大学の(文系の)授業ではやらないようなアドバンストなトピックを、ある意味では講師の趣味丸出しで、思い切ってやってみようという試みです。京大の正規の授業ではありません。

今年は3月14,15日に矢田部俊介先生、21,22日にわたしという担当で予定していました。どちらも1日3コマ(5時間)程度×2日というかなり長時間の講義です。

例年はもちろん京大の教室で講義していたのですが、今年の新型肺炎の影響により、まず教室での講義と並行してウェブ配信を行うことに決めました。基本的に少人数の講義なので、教室で行っても感染リスクは低いだろうということと、それでも、出席したいが自粛するという方もいらっしゃるだろうということ、両面を考えてのことでした。

それが急転直下、3月12日に京大文学研究科から「3月16日からの教室使用を当面禁止する」旨の通達が出されます。14,15日は形式上は使用可能ですが、通達の趣旨を踏まえて、私たちも教室使用を諦めることにし、ウェブ配信一本で行うことにしました。配信はYouTubeで行うことにしました。

配信にかかわるテクニカルな事柄(機材、ソフトなど)はすべてわたしが担当しました。ふだん動画作成などもやっているので、こういったことについては詳しいほうだと思いますが、配信に関してはまったくの初めてでした。

考慮項目

まず考えたのは配信はYouTubeにするかZoomにするか、です(ちょうどZoomが脚光を浴び始めた時期でした)。以下の理由からYouTubeに決めました。

  • YouTubeライブ配信については自分でしたことはなかったものの、ときどき見る機会はあり、どういうものかについての相場観はあった。
  • YouTubeはリンクをクリックするだけで誰でも見られる。Zoomも簡単とはいえひと手間かかる 。
  • 論理学の講義なので(スライドではなく)板書が必須。そして、板書をきれいに配信するためには、ある程度の画質が必要。これもYouTubeについては相場観があったが、Zoomはよくわからなかった。
  • YouTubeは自動的にそのままの画質でアーカイブが作成される。Zoomも録画は作成できるが、やはり画質が心配だった。

と並べてみると、要するにYouTubeのほうが馴染みがあった、ということに尽きますね。Zoomについてはこちら側でも聞き手側でもこれから馴染みが出てくるのだと思います。

一方、YouTubeで心配なのは相互性でした。受講者からの質問はチャット欄で文字だけになってしまうし、講師からしてもリアルタイムの「顔」の反応が見えないのは不安です。ということで、YouTubeでの配信と並行してZoomミーティングも開いておくことにしました。

実施

講義の様子は以下のアーカイブから見られます。

3/14: https://youtu.be/KrX0Efnulgg

3/15: https://youtu.be/Pf1YU4JEkkw

3/21: https://youtu.be/CGjikv5m6Ys

3/22: https://youtu.be/bRE0L08kh6I

14,15日はわたしが所属する「人社未来形発信ユニット」のセミナールーム、21,22日はわたしの研究室で行いました。どちらも壁一面がホワイトボードです。尋常でなく長いという点を除けば、画質・音質ともに十分だと思います(少しカクつく時間帯はありました)。

機材セッティングは次のような感じです(汚いですが)。

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カメラPanasonic Lumix G8 (レンズキット付属のデフォルトレンズ)

PCMacBook Pro 16inch (現行上位機種カスタマイズなし) これはめちゃくちゃ高いやつですが、少し非力な2015モデルMacBook 12inchでも問題はなさそうでした(長時間の安定性については未テスト)。

キャプチャーボード:Pengo HDMI Grabber 1080p (カメラから出力したHDMIをMBPに入力するための変換器です。)

ワイヤレスマイクRode Wireless Go (5時間講義ぶっ続けでも電池もった!)

Wifi : 有線のほうがいいんでしょうが、部屋のルーターから出しているWiFiで十分でした。上りが30mbpsくらい。

ソフト:OBS。OBS Studioで高画質・高音質な配信をする方法 - 新・VIPで初心者がゲーム実況するには などを参考に設定しました。画質や音質の設定はちょっと気にする必要がありますが、OBS自体は直観的に使いやすいです。

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14日のセッティング風景

セッティングはこれだけで、拍子抜けするほどシンプルです。設置状況はさまざまだと思うので、気をつけるべきは、電源・カメラ→PCの入力・LAN(有線なら)それぞれのケーブルの長さです。

これらに加えて、YouTubeのチャット欄+Zoomミーティングの表示用にもう1台PCを立ち上げておきました。

感想:技術面

 今回は、今後のユニットの活動に活かすための試行ということで、かなりちゃんとしたユニットの機材を借りられたのでラッキーではありました。どれだけスペックを下げられるかはわかりません。それに、いまの機材であとどれだけクオリティを上げられるかも。

セッティングが固まれば、準備はかんたんです。15分くらいあれば大丈夫でしょうか。ただし、今回ははじめてだったので、何回もテスト配信をするなど準備に数日かかりました(きらいではないので楽しみましたが)。

おかげさまで、配信にかんする技術的なトラブルはなく、合計20時間ほど安定した配信ができました。

Zoomは基本的に開店休業状態でした。また講師側としてはYouTubeとZoomを同時にハンドリングするのはなかなか難しいと感じました。1コマ終わったあとなどにYouTubeは一時ストップしてZoomに移りまとめて質疑応答用の時間をとる、といった運用がよいかと思います。

感想:講師として

聞き手のリアクションが見えないというのは不安でしたが、やってみると、正直あまり違和感を覚えず喋りまくりました。これは、わたしがもともと聞き手とあまりインタラクションをしないタイプの人間だからかもしれません。

教室講義を想定して作った内容をまったく改変せずに配信にぶつけて、しかも1日5時間というのはちょっと常軌を逸しているかもしれませんが、ま、好きな人はこのくらい大丈夫なのではないでしょうかアーカイブもあるしね。

結果・反響

配信中のリアルタイム視聴者数は、14日:70〜80人、15日:40〜50人、21日:30〜40人、22日:25人程度、でした。22日はさすがにツワモノだけが残っていたようで、視聴者数はずっと安定していました(^^)

ぜんぜん多くはないのですが、もともとかなり論理学のかなりマニアックな話題を扱う講義で、例年の受講者数はせいぜい20人程度ということ考えると、こんなものではないでしょうか。アーカイブの視聴者数も考えると、わたしとしては十分です。

他方でツイッターでは、わたしはフォロワー数1000人程度の弱小アカウントですが、こういう時勢ということもあり、告知ツイートに多くのRTやいいねをいただきました(100いいね越えることなんて普段ないんですが)。正直、この講義の内容をしっかり見て楽しめる人は少数だと思いますが、多くの人に向けて「やってるぞ感」は出せたのではないかと思います。

 

新型肺炎はさっさと収まってほしいですが、今後もこういう試みは続けていこうと思います。ご意見ありましたらお寄せください。

論理的実在論、にたどりつけなかった話

 前エントリで少し示唆した「論理学の哲学」についての話です。

takuro-logic.hatenablog.com

学生さんに「論理的実在論」(論理の実在論だったか、論理にかんする実在論だったか、言葉はあれですが) について教えてください、と言われていたので、少し勉強しました。ベースとして読んだのはTahkoさんの

link.springer.com

です。さいきんはオープンアクセスが多くていいですね。ただ、残念ながらあまりおもしろくはなかったので、どうおもしろくなかったのか考えてみます。

まず、論理的実在論とは何か。幾人かの論者に依拠しつつ、Tahkoは次のようにまとめます。論理的実在論とは、次の2つのテーゼにコミットする立場です:

(LF) 論理的事実 (logical fact、ないし論理的構造) なるものが存在する。すなわち、論理についての主張の真理値にかんする事実 (fact of matter) というものが存在する。

(IND) 論理的事実は、私たちの認知や言語の成り立ちや実践からは独立である。それらは、心からも言語からも独立 (mind- and language-independent) という意味で客観的である。

たとえば、排中律が論理的真理であるのは、それを(論理的に)真にする事実が、私たちの心や言語のなかにではなく、客観的な世界の側にあるから、という考え方のようです。そして、その場合の「事実」というのはだいたい、モデル論的な構造のことを念頭においておけばよさそうです。

わかるようなわからないような特徴づけなんですが、考察の出発点としても、やっぱりナイーブすぎるように思います。とくに、Tahkoが重点をおいている(IND)です。認知や言語から独立の客観的事実、という考え方です。

たとえば、論理学の基本的な定理である完全性定理は「任意の推論に対して、その妥当性を示す証明か、その非妥当性を示す反例モデルのいずれかが存在する」という定理です。「証明」はもちろん言語的な構成物です。他方、ここでの「反例モデル」はしばしば、論理式の集合からなる「カノニカルモデル」として与えられます。つまり、こちらも言語的な構成物です。完全性定理は、言語的な構成物を大々的に用いて証明される定理です。

比喩的に言うと、ここには、言語それ自体が、自身の論理的正しさを支えうるような「客観的事実」を構成しているという驚きがあります (わりとみんなに共有されている驚きだと思うんですが、どうでしょう)。論理にかかわる実在論を論じるなら、こういう驚きが出発点になると思うんですが、残念ながら、(IND)にはそういう驚きのカケラも見いだせないんですよね。

これは、言語独立なわけがないので(IND)は間違っている、と言っているわけではないです。「そもそもこういう考えてないのかしら?せっかくオイシイところなのに」と言いたくなるということです。

言い換えると、論理に特有の事柄をあまり考えずに、「実在論テンプレート」をそのまま当てはめているだけのように見えるのです。

  • 数学的事実は、私たちの認知や言語の成り立ちや実践からは独立である。
  • 物理的事実は、私たちの認知や言語の成り立ちや実践からは独立である。
  • 社会的事実は、私たちの認知や言語の成り立ちや実践からは独立である。
  • ・・・
  • 〇〇的事実は、私たちの認知や言語の成り立ちや実践からは独立である。

というテンプレートを、とりあえず論理に当てはめてみて、さてどうなるか見てみよう、という態度に見えるわけです。これでは、ちょっと動機づけが薄いように思います。

もう少しいやらしい話をすると、論理的実在論の動機づけについて、Tahkoは次のように言います。

なぜ論理的実在論に興味をもたねばならないのか?ひとつ明確な理由は、それが論理に対する興味ある基礎づけ(foundation)あるいは根拠づけ(grounding)を与えるだろうというものである。

えっいまどき基礎づけ?とか思うわけですが、そこに「あるいはgrounding」と付け加えられているので、わたしとしては、前エントリで数学の哲学について述べた「応用問題」の構造を見てとってしまいます。つまり、分析形而上学のホットトピックであるgroundingの概念を論理に応用するとどうなるのか、という話であって、ほらやっぱり、論理そのものにそんなに興味ないんじゃない?と。

もちろん、「テンプレート」にしても「応用問題」にしても、 理論の一般的妥当性を測り、一定の規格のもとでの可能な見解のカタログを作る、ということですから、意味のあるアプローチではあるとは思います。でも、まあ、わたしとしては、論理学にはこんなにいろいろおもしろいことがあるのに、それをほっといてなんでそんな空中戦やってんの…というのが正直な感想です。

君ら、ほんまに興味あるんか?

以前、科学基礎論学会でイアン・ハッキングの数学の哲学について発表をしました(スライドはこちら)。ちょうど来日滞在中だったLeon Horsten先生と (それにわれらが伊藤遼さんと) 一緒にパネルをさせてもらったのが、とてもよい思い出です。

発表の内容は「なんでハッキングは分析的な数学の哲学がきらいなのか」。で、おもいっきりざっくり言えば、ハッキングが言いたいのは「君ら、じつは数学にはそんな興味ないんやろ?」ということです。さりげなく宣伝ですが、

www.morikita.co.jp

この本での議論に基づいています。

もう少し詳しく言うとこういうことです*1。ハッキングの見立てによれば、20世紀後半以降の分析哲学の伝統における数学の哲学の議論のやり方は、概して、そのときどきの流行の哲学理論を取り上げて、それが数学にいかにして適用できるか(あるいはできないか)を論じる、というものでした。彼の念頭にあるのは、いわゆる「ベナセラフのジレンマ」に登場する因果的な知識論や表示的意味論といった哲学理論です。

これらは、必ずしも数学にかんする哲学的な考察からではなく、むしろ別のところで生まれた理論です。数学はそこでは、それらの理論の一般的な妥当性を測るための試金石として用いられているにすぎません。ハッキングとしては「君ら、じつは数学にはそんな興味ないんやろ?」と言いたくなるわけです。ほんとに興味があるのはそっちの理論の方でしょ、と。

もちろん、このような分析的な数学の哲学の営みからも多くを学べるということは、ハッキングも認めています。でも、彼にしてみれば、それは付随的なものにすぎません。プラトンからウィトゲンシュタインに至る哲学者たちの数学への態度を振り返ってみれば、数学というのはそのような「応用問題」の材料なんかではなかった、むしろ数学それ自体がシリアスな哲学的問題の源泉だったじゃないか、というのが、ハッキングの言いたいことでした。

 

で、なんでこういうことを思い出しているかというと、いまちょうど論理学の哲学の論文を読んでいて、まさに同じことを感じたからです。「君ら、じつは論理学にはそんな興味ないんやろ?」です。まだその論文は読み終わっていないので、もう少し検討しますが、この印象が正しければまた報告します。

*1:いちおうお断りしておくと、かなり要約・意訳・咀嚼が入っています。

C.I.ルイスの厳密含意 (3)

ずいぶん間が空きましたが、しれっと再開します。続くかどうかは微妙。ともあれ、厳密含意の話が途中で終わっていたので、それをしめくくりたいと思います。

ここまで2つの記事で、C.I.ルイスの厳密含意がどのような問題意識とどのような着想のもとで生み出されたのかを見ました。

takuro-logic.hatenablog.com

takuro-logic.hatenablog.com

ここでは、厳密含意の何がダメだったのかを考えます。 「え、厳密含意ダメなの?」と思われるかもしれませんが、厳密含意のパラドクスというのが生じてしまいます。

 \Box B\models A\prec B  \neg \diamondsuit A\models A\prec B

これらが(少なくともルイスが意図していた体系では)成り立ってしまいます。\prec は厳密含意を表します*1

前回見たように、厳密含意  A\prec B は必然的な実質含意です。

 A\prec B= \Box (A\supset B) =\Box (\neg A\vee B)

すると、いま風に言うなら*2\Box B が真なら、すべての可能世界で  B が真ということですから、もちろん  \neg A\vee B もすべての可能世界で真です。つまり \Box (\neg A\vee B) が真ですね。 \neg \diamondsuit A のほうも同様です。というわけで、上の2つの推論は妥当です。

そして、これらはそれぞれ

  • 必然的に真な命題 (\Box B) は、任意の命題から(厳密)含意される
  • 必然的に偽な命題 (\neg \diamondsuit A) は、任意の命題を(厳密)含意する

ということですね。ここでの AB はまったく関係のない命題でもかまいません。B に「ソムタムおいしい」(必然的真理)とか、そして A には「2+2=5」とか入れてみてください。これは、以前に見た実質含意のパラドクス

 B\models A\supset B  \neg A\models A\supset B

とほとんど同じ形、同じ状況です。以前はたんなる「真な命題」だったのが「必然的に真な命題」に、「偽な命題」が「必然的に偽な命題」に変わっただけで、まったく関係のない命題のあいだに含意関係が成り立ってしまう、という事態は同じです。

じつはルイスは「厳密含意にかんしてはこれでいいんだ!」と力説しており*3、その議論を検討する必要はあるかもしれませんが、やはりどうやっても無理があるように思います。というわけで、厳密含意のパラドクスは「実質含意に代わる適切な含意を見出す」というプロジェクトにとって致命的であったという結論にして、次に進みましょう。検討したいのは、厳密含意の何がダメだったのか、です。

こういうことではないかと思います。ルイスは、含意は前件と後件の必然的結合に存すると考えて必然性概念を導入しました。これはいいんですが、問題は結合のほうに十分気を配れていなかったことではないか。ひとつの命題を単独で考えることと、ふたつ(以上)の命題を、連言でも選言でも含意でも何でもいいんですが、とにかく結びつけて考えることとは何がちがうのか、彼はあまり気にしていないように見えるのです。これが、厳密含意のダメだったところではないでしょうか。

「とはいえ結合ってなによ」と思われるかもしれませんが、それほど難しいことではないでしょう。B という命題が成り立つかどうかを B 単独で考えているときと、A という前提のもとで B が成り立つかどうかを考えているときでは、ちがうことが起こっているだろうということです。もう少し言えば、A を考慮に入れることで、わたしたちは、B 単独で考えていたときとは文字通り異なる前提のもとで、あるいは異なる視点、異なる文脈、異なる可能性のもとで考えている、ということです。

このように考えれば、厳密含意のパラドクス はブロックできる見込みが出てきます。B が必然的に成り立つとしても、それは「いまこの視点のもとで考えれば」の話です。A という前提を置くことで、私たちは別の視点に移動します。そしてその新しい視点のもとでは、B が(必然的に)成り立つかどうかは、以前とはまた別の話です。つまり、A という前提のもとで必ずしも B が成り立つとはかぎりません。言い換えれば、B が必然的に成り立つとしても、"A ならば B"が成り立つとはかぎりません。

私見では、(厳密含意のある意味で正統な後継者である) 関連性論理の3項関係意味論のベースにあるのが、この「複数の命題を結びつけて考えると視点が移動する」という考え方です。歴史的にはそう単純な話ではありませんが、そのような合理的再構成が可能ではないかと思っています。つまり、厳密含意に欠けていた「命題同士の結合」についての洞察を補ってやることで得られたのが、関連性論理の含意 (relevant implication) だということです。

3項関係についてもそのうち書きたいですね。ともあれきょうはこの辺で。

*1:本当はもう少しカーリーで、釣り針に似た形の結合子なのですが、ここでは表示できないので、それなりに似ている\precで代用します。

*2:ルイスの頃にはまだ可能世界意味論はありませんので。

*3:A Survey of Symbolic Logic, p.336 あたりです。